佐竹屋敷

佐竹屋敷さたけやしき
神奈川県鎌倉市大町3丁目
Mapion

--大宝寺に立つ屋敷址碑--
別名          
交通 JR横須賀線「鎌倉駅」から徒歩20分。
築城年代 平安時代
築城者 佐竹氏
形式 屋敷
主な城主 佐竹氏・山入興義
常陸国佐竹氏は甲斐国武田氏と同じく、源義家の弟新羅三郎義光を祖とし、1083年(永保3)〜1087年(寛治1)後三年の役後、義光がこの地に屋敷を構えて以来、代々佐竹氏屋敷になったといわれる。
1403年(応永10)佐竹氏12代義盛は跡継ぎが無かった為、関東管領山内上杉憲定の子龍保丸(義憲・義人)を養子に迎え、後継者とした。しかし1407年(応永14)義盛病没後、本国である常陸国内の山入・長倉・額田氏ら一族は義憲の家督相続に反対し、義憲の入国を阻止する為、長倉城に挙兵した。これに足利公方4代持氏は討伐軍を動員して長倉城を包囲、開城させ、太田城に入城した義憲は正式に家督を相続出来たが、降伏したこの乱の首謀者は特に処分されなかった。この事が後に遺恨を残す事となり、佐竹総領家と山入家の対立は続いていく。
1416年(応永23)犬懸上杉氏憲(禅秀)が持氏の叔父満隆と謀り、満仲を奉じて挙兵した上杉禅秀の乱の際、義憲は恩義のある持氏方に従うが、山入興義入道常元や長倉義量らは禅秀方に付いた。乱後、再び山入興義らは赦されるが、その後も興義は義憲と対立を続ける。1422年(応永29)興義がこの佐竹屋敷に居る事を知った持氏は、山内上杉憲直に討伐を命じた。興義は奮戦するが、その後山背を越えて北西の妙本寺に逃れて自刃、境内には興義のものとされる墓が残されている。

参考文献   「鎌倉合戦物語 雄山閣出版」
                   「中世都市鎌倉 遺跡が語る武士の都 講談社」
訪城回数 1
2016年1月