茨城県常陸太田市中城町 --城址碑-- |
別名 | 舞鶴城・青龍城 |
交通 | JR水郡線「常陸太田駅」から徒歩25分。 |
築城年代 | 1108〜10年(天仁年間) |
築城者 | 太田大夫通延 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 佐竹氏 |
1108〜10年(天仁年間)太田郷に入った秀郷流藤原系の通延により館が設けられた事に始まるとされ、通延は太田氏を称した。 その後天神林の馬坂城に土着していた佐竹氏初代昌義が太田氏を小野崎に追うと、馬坂城には城代を置き、太田城に移った。以後太田城は約470年間、佐竹氏累代の居城となる。太田城は別名舞鶴城ともいい、城の竣工の時、鶴が城の上を舞い周り、吉兆として呼ばれるようになったと言い伝えられる。 佐竹氏2代隆義の時、平家の恩顧を受けて常陸奥7郡を支配し、また太田城も更に拡張され、青龍城とも称された。 佐竹氏16代義舜の時、義舜の補佐役となった山入義藤・氏義父子に太田城を追われるが、1504年(永正1)岩城氏の支援を受けて太田城を奪還し、氏義は処刑された。義舜は家法23ヶ条を制定する等、佐竹氏中興の祖と称されるようになる。 その後佐竹氏は北は白河・芦名氏、西は那須氏、南は小田・後北条氏と争い、1590年(天正18)佐竹氏20代義宣は、豊臣秀吉による小田原攻めに参陣し、54万石を安堵され、徳川・上杉・前田・毛利・島津諸氏と共に「天下の六大名」に数えられたという。同年義宣は小田原攻めに参陣しなかった江戸氏を追うと、水戸城へ移り、以降この太田城は北城と称されて義宣の父義重の隠居城となる。 1602年(慶長7)義宣は出羽国秋田へ転封となり、これにより佐竹氏は約470年間にわたる故地を離れる事となり、太田城は廃城となった。 若宮八幡宮から東一帯が二の丸、太田小学校一帯が本丸、更にその北側が三の丸、北郭となる。太田小校庭外周に土塁とも思われる土盛りも見られるが、明確な遺構は確認出来ない。太田小校門内に城址碑が立てられている。 |
二の丸にあたる若宮八幡宮 境内に立つ大ケヤキ |
若宮八幡宮社殿 | 本丸・太田小学校 |