1353年(正平8)九州探題一色範氏の子直氏により築かれたとされるが、それ以前鎌倉時代には既に城が築かれていたとも考えられる。翌年菊池武安が城主となり、その後少弐氏・大友氏・江上氏が続いて城主となった。 1569年(永禄12)大友宗麟が龍造寺隆信攻略の為、筑後高良山に布陣すると、肥前の諸武家のほとんどが大友方に付き、勢福寺城主江上武種もそれに従うが、この時は毛利氏が筑前に侵入した為、宗麟は兵を退いた。翌年3月、宗麟は再び高良山に布陣し、大友方は村中城を包囲するが、戦線は膠着したまま8月を迎えた。17日、宗麟弟である大友親貞は援兵として高良山を発し、村中城北西6キロの今山に本陣を構えるが、龍造寺方である鍋島直茂の夜襲を受けて討死すると、大友勢は敗走した。1571年(元亀2)今山合戦後、勢福寺城は龍造寺方に攻められ、武種は龍造寺隆信の子である家種を養子として和睦が成立した。 1589年(天正17)家種が蓮池城に移ると廃城となった。 標高196メートル城山山頂に位置する。城址は堀切を挟み、大きく5つの曲輪から成る南城と3つの曲輪から成る北城とで構成されており、南城は古い少弐氏時代のもの、北城は新しい江上氏時代のものと考えられている。山麓台地一帯には居館跡と考えられている雲上の城や城下を守る土塁や堀が残る。山麓に広がる水田は家臣団屋敷跡とされ、元屋敷・市場等、城下町が形成されていた事を伺わせる地名が残されている。 |