長野県飯田市駄科 --二の丸南空堀-- |
別名 | |
交通 | JR飯田線「駄科駅」から徒歩30分。 |
築城年代 | 南北朝時代 |
築城者 | 小笠原宗政 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 小笠原信嶺 |
鈴岡城の始まりについては不明な点が多いが、南北朝時代小笠原貞宗の子宗政により築かれたとされる。 城主小笠原政秀の頃より伊賀良庄と信濃守護職を巡り、松尾小笠原氏と争うようになる。1493年(明応2)1月、松尾城主定基は、年始の挨拶で訪れた政秀を謀殺し、鈴岡城を落城させた。しかし深志小笠原氏は下条氏と共に松尾城を攻め、定基は甲斐武田氏の下へ逃れた。その後定基は松尾城に復帰するが、1532〜1555年(天文年間)定基の死後、深志小笠原長棟とその子長時は伊那郡へ入り、定基の子貞忠を再び甲斐へ追うと、長時の弟信定を擁立し、鈴岡小笠原家を再興した。 1554年(天文23)鈴岡城は定基の子信貴を先鋒とする武田軍に攻められ落城し、松尾小笠原家は信貴により再興された。その後鈴岡城は松尾城の支城となったようである。 1582年(天正10)織田信長軍が伊那谷に侵入した際、信貴の子信嶺は戦わずに降伏し、その後徳川家康からも旧領を安堵され、松尾城に居城したが、1590年(天正18)家康が関東へ移ると、信嶺も武蔵本庄へ移り、松尾城は廃城となった。 |
二の丸 | 二の丸西空堀 | 南外郭 |
本丸・二の丸間空堀 | 本丸 | 鈴岡城・松尾城間に架かる橋 |