備中高松城

備中高松城びっちゅうたかまつじょう
岡山県岡山市北区高松
Mapion

--蛙ヶ鼻築堤跡--
別名    
交通 JR吉備線「備中高松駅」から徒歩15分。
築城年代 1558〜70年(永禄年間)
築城者 石川久式
形式 平城(沼城)
主な城主 清水宗治
1558〜70年(永禄年間)石川久式が築き、久式死後、女婿である清水宗治が城主となった。
1577年(天正5)以降、織田信長は中国方面へ羽柴秀吉を進出させた。毛利氏は国境防備の城、「境目7城」の守りを固め対抗していた。1582年(天正10)4月、秀吉は3万の大軍で高松城を攻め、宗治に降伏を勧めるが応じなかった。秀吉は黒田官兵衛の献策に従い、宇喜多氏家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3キロに及ぶ堤を12日間で完成させ、足守川の水を流し込んだ。これにより大湖水が出来、高松城は孤立した。
一方6月2日、京都本能寺で織田信長が明智光秀に討たれる事件が起こった。この報に秀吉は毛利方軍師安国寺恵瓊を招き、宗治の首級で城兵の命は助けるという条件で宗治を説かした。宗治はこれを承知し、6月4日湖上に舟を出し自刃した。秀吉はこれを見届けると急いで兵をまとめ、京へ向かった。
戦後、秀吉の城番として杉原家次が在城し、その後宇喜多氏の部将花房正成が居城し、この時大改修が行われた。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、旧宇喜多氏家臣である花房職秀が徳川家康から旗本に取り立てられると、この地を与えられて入城するが、その後廃城となった。
南手口・舟橋
八反堀を掘りそこへ舟を並べ
橋としていた
二の丸から本丸方面 復元された蓮沼
清水宗治首塚 清水宗治自刃の地碑 ごうやぶ
宗治家臣が互いに刺し違え
殉死した所と伝わる
秀吉本陣跡・石井山遠望 Mapion
蛙ヶ鼻築堤基底部・杭列
蛙ヶ鼻築堤上

参考文献 「現地案内板」
                    「広島・岡山の城郭 新人物往来社」
訪城回数 2
2008年1月
2009年3月