高山城は天屋城・要害山城・百間築地の砦で平城部を囲む複合城郭で合わせて高山城、または日野城とも呼ばれる。 武蔵児玉党の高山重遠を祖とする高山氏居城で築城年代については鮎川を挟み、北側に位置する平井城築城と同年代、1429〜41年(永享年間)頃と考えられる。 1508年(永正4)越後守護上杉房能が長尾為景に背かれて自刃すると房能の子である当時3歳の長寿丸(行重)は高山満重に引き取られて成長、上杉憲政は満重の養子として高山氏を継がせた。この為満重の子定重は分家して武州久城に移るが、1552年(天文21)上杉憲政が後北条氏に平井城を追われると行重も高山を離れ、定重が城主となり、後北条氏に属した。 1560年(永禄3)上杉謙信が関東出兵すると、定重はそれに従うが、1563年(永禄6)武田信玄の西上野進攻に際し、武田氏に降った。1569年(永禄12)後北条氏が武田氏との同盟を捨て、上杉謙信と結ぼうとした時、同年5月17日付けで武田氏は定重に武蔵・上野境に新城を築くように命じているが、この時山頂の天屋城が整備されたのではないかと考えられる。 山頂の天屋城は標高287メートルの三角点に位置する。北端を本丸とし、そこから西南に延びる尾根上に曲輪が設けられ、堀切により7郭となる。更にここから派生する尾根上に南堡塁・東堡塁が築かれているが、ゴルフ場造成により破壊された個所も多く、また敷地内になるようで未見。 |