山梨県韮崎市神山町武田 --館址-- |
別名 | |
交通 | JR中央本線「韮崎駅」から徒歩25分。 |
築城年代 | 12世紀初頭 |
築城者 | 武田信義 |
形式 | 館 |
主な城主 | 武田信義 |
甲斐源氏の祖である源(逸見)清光の子信義は1128年(大治3)に生まれる。信義は生地逸見から分封されると、この地に居館と要害城を構え、武田八幡宮で元服し、武田太郎と号して武田氏の祖となり、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。 1180年(治承4)以仁王の平家討伐の令旨を受けて挙兵し、信濃・駿河に転戦して武功を立て、駿河守護に補せられた。しかし甲斐源氏の勢力に危機感を抱いた源頼朝に謀反の疑いをかけられ、子である一条忠頼が謀殺される等、晩年は幕府から冷遇され、1186年(文治2)59歳の時、失意の内に世を去った。しかし1190年(建久1)頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、また1194年(建久5)東大寺造営や小笠懸の射手にも信義の名が見られる事から1186年(文治2)以降も生存していた可能性も考えられている。 館址は武田地区の東端を占め、現在は宅地や耕地となるが、付近には御部屋・御庭・御旗部屋・的場・具足沢等の地名が伝わる。また南東の願成寺境内には武田信義墓所がある。 |
館址 | 願成寺 |
願成寺・武田家家臣招魂碑 |
願成寺・武田氏累代御霊殿 | 願成寺・武田信義墓所 | 武田八幡宮 |
武田八幡宮・拝殿 | 武田八幡宮・武田勝頼夫人願文碑 | 武田八幡宮・本殿 |