立入城

立入城たていりじょう
滋賀県守山市立入町
Mapion

--新川神社東を流れる水路--
別名  
交通 JR東海道本線「守山駅」から徒歩20分。
築城年代  
築城者 立入氏
形式 平城
主な城主 立入宗継
観音寺城主六角氏に仕えた立入清直居城とされるが、立入氏の出自については諸説あり、詳細は不明。
立入秀興の子秀康は六角高頼に従い、京都六角邸に仕えていた。1500年(明応9)後土御門天皇が崩御するが、財政的な理由から大葬の準備が出来ずにいた。この時秀康は高頼を通じて御料を奉じた事から御倉職となると、以後立入氏は代々禁裏・御倉職を世襲した。
宗康の孫宗継は岳父磯貝久次の娘、即ち自身の妻の妹が織田信長家臣である道家尾張守に嫁いでいた事を頼みとし、1564年(永禄7)正親町天皇の勅使として尾張国清洲にて信長と対面しており、退転の公家相続の事・御料所の事・御所修理の事を伝える綸旨と奉書を渡し、上洛を促した。その後も宗継は朝廷と信長との調整に奔走する等、信長の天下統一への陰の大きな力となり、晩年は隆佐(立佐)と称した。
新川神社付近が城址といわれ、境内に堀跡が残されている。正確な城域は不明だが、付近の竹薮や東福寺辺りにも土塁や堀跡と思われる水路が確認出来る。
新川神社 新川神社境内西側に残る堀跡 東光寺

参考文献 「新川神社境内案内板」
                   「京都・滋賀・福井の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2017年4月