愛知県清須市清洲 --天守-- |
別名 | 清須城 |
交通 | JR東海道本線「清洲駅」から徒歩15分。 |
築城年代 | 1394〜1427年(応永年間) |
築城者 | 斯波義重 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 織田信友・織田信長・織田信雄 |
1394〜1427年(応永年間)尾張守護斯波義重が守護所下津城の別郭として築いたとされる。その後1476年(文明8)下津城が戦乱により焼失すると守護所は清洲城に移されたといわれる。 やがて斯波氏が衰えると守護代織田氏が勢力を持つようになり、岩倉織田氏が尾張上四郡、清洲織田氏が下四郡を分割支配し、清洲城は清洲織田氏本城となる。 1552年(天文21)末森城主織田信秀没後、那古野城主織田信長が跡を継いだ。当時実力を失っていた守護斯波義統や織田信友に代わり実権を握っていた家宰坂井大膳は信長打倒の動きを見せる。同年8月16日、那古野城を出陣した信長は叔父である守山城主織田信光と共に萱津に進出し、坂井氏と争い、勝利した。1554年(天文23)信友と大膳は斯波義統を討つと、信長は義統の子義銀を擁し、清須城を攻め、安食合戦で勝利した。翌年信光は一計を案じ、清洲城に入城し、大膳を今川氏の下へ追うと、主筋である信友を討ち、清洲城を占拠した。信光に清洲城を譲られた信長は新たな本拠として移り、信光は那古野城に入城するが、後に家臣坂井孫八郎に暗殺された。また義銀は後に信長に追放されている。 1560年(永禄3)桶狭間合戦後、三河岡崎城に入城し、駿河今川氏から独立した松平元康(徳川家康)は、1562年(永禄5)1月、清洲城を訪れて信長と同盟を結んだ。 1563年(永禄6)美濃稲葉山城主斎藤龍興攻略の新たな拠点として小牧山城を築いて移る。 1582年(天正10)信長が本能寺の変にて非業の最期を遂げると、織田家の重臣らは清洲城に参集し、相続者や遺領の分配を定めた。この清洲会議の結果、清洲城は織田信雄(信長2男)に与えられ、この時大改修が行われたが、後に信雄は豊臣秀吉に改易された。 その後豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直が続いて入城するが、1610年(慶長15)名古屋城の築城が開始されると、石材や木材が転用され、清須城は廃城となった。 |
城址碑 | 織田信長を祀る社 | 復元された石垣 |
織田信長像 | 復元された城門 | 天守 |