豊島清光館

豊島清光館としまきよみつやかた
東京都北区豊島7丁目
Mapion

--清光寺--
別名  
交通 東京地下鉄南北線「王子神谷駅」から徒歩15分。
築城年代 平安時代
築城者 豊島清光(清元)
形式
主な城主 豊島清光(清元)
清光寺は豊島清光を開基とし、この地は彼の旧宅跡と伝承されている。
豊島氏は秩父氏の庶流で、秩父別当武基の弟(次男とも)武常がこの地を開発し、豊島氏を称した事に始まる。
1180年(治承4)源頼朝は石橋山合戦で敗れ、安房国に逃れると、下総国亥鼻城主千葉介常胤に迎えられ、再挙を図る。頼朝は鎌倉を目指し、武蔵国に入ろうとするが、豪族江戸太郎重長に阻まれ、墨田川を渡る事が出来なかった。その際清光は同族である江戸氏を説得し、頼朝の武蔵入国を助け、勲功を挙げた。
その後清光は、嫡子朝経に家督を譲ったと思われ、その名はみえなくなる。やがて朝経は土佐・紀伊国守護となるが、1203年(建仁3)10月15日、比叡山の戦いで討死した。
その後豊島氏は、武蔵豊島郡を地盤とし、なおも名族として続いたが、1477年(文明9)石神井城主豊島泰経の時、太田道灌に攻め滅ぼされた。しかしその後、居住地は不明だが、泰経の子、康保が後北条氏に仕えている。
現在豊島清光の名は誤りで、清元である事が判明しているが、清光寺の寺号は清光の名によるものとする事から清光館とした。

参考文献 「現地案内板」
                    「東京・埼玉の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2009年3月