1336年(建武3) 足利尊氏×楠木正成 --大楠公戦跡碑-- |
交通 | 阪神電鉄本線「打出駅」から徒歩15分。 |
一帯では2度合戦が行われている。 ●足利尊氏×楠木正成 1335年(建武2)12月11日、後醍醐天皇に叛いて武家政権の樹立を目指す足利尊氏は竹之下で新田義貞を破り、1336年(建武3)1月、京に攻め上がる。しかしその間奥羽北畠顕家が兵を率いて尊氏不在の鎌倉を占拠すると、そのまま尊氏の後を追い西上、尊氏軍を撃破した。 丹波へ逃れた尊氏は再び入京を目指し、豊島河原で義貞・顕家軍と争うが、この地に陣を置いた楠木正成が背後から尊氏軍を奇襲すると、尊氏は兵庫へ逃れ、海路九州へ敗走した。 ●足利尊氏・高師直×足利直義 1338年(暦応1)征夷大将軍に任ぜられた足利尊氏は武家棟梁として軍事を掌握し、政務は弟直義に任せて幕府を組織化していた。やがてこの二頭体制により幕府内部は分裂し、執事高師直・師泰兄弟と直義は対立するようになる。1349年(貞和5)直義が師直の罷免を要請すると、師直は直義の居館を襲撃し、更に直義が逃れた尊氏館を大軍を持って取り囲んだ。この時は尊氏の斡旋により直義の出家、そして讒者上杉重能・畠山直宗らの流罪で和議が成立するが、翌年尊氏が九州で勢力を伸ばす庶子足利直冬を討つ為、遠征の徒につくと、直義は京都を出奔し、南朝方と手を結んで挙兵した。そして京から足利義詮を駆逐すると、鎌倉の高師冬も直義派の上杉憲顕により滅ぼされた。 1351年(観応2)2月、尊氏はこの地で直義軍と争い敗れると、師直・師泰出家を条件に和睦が成立した。しかし師直・師泰は帰陣中、武庫川において上杉能憲に謀殺されている。その後も尊氏と直義は対立は繰り返され、1352年(文和1)直義の病死(毒殺だったといわれる)により「観応の擾乱」は幕を閉じた。 |