1335年(建武2) 足利尊氏・直義×新田義貞 --古戦場碑-- |
交通 | JR御殿場線「足柄駅」から古戦場碑まで徒歩5分。 |
1333年(元弘3)新田義貞の鎌倉攻めにより14代執権北条高時一族は自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。その後京に復帰した後醍醐天皇は建武の新政を開始し、鎌倉には鎌倉将軍府が設置され、足利尊氏の弟直義が成良親王を奉じて守った。 1335年(建武2)新政に不満を持つ武士の反乱が各地で起こり、7月諏訪頼重らは高時の遺児時行を擁して挙兵し、井手の澤合戦で直義軍に勝利、直義は西へ敗走した。この時直義は父後醍醐天皇や尊氏と不和になり、鎌倉に幽閉されていた護良親王が時行に擁立される事を恐れ、淵辺義博に命じて暗殺している。「中先代の乱」 京に在った尊氏は時行を討つ為、東下の許可と征夷大将軍の任命を要請するが、尊氏が自立する事を警戒した後醍醐天皇が拒否した為、征夷大将軍を自ら名乗ると、勅命を無視して京を出陣、鎌倉を奪還した。その後尊氏は帰京せず、独自に恩賞を与える等、武家政権の樹立を目指し、後醍醐天皇に背いた。 これに対し後醍醐天皇は、尊氏討伐軍として新田義貞を東下させた。12月5日、直義が手越原で新田軍を迎撃するも敗れるが、12月11日、尊氏が自ら陣頭に立つと足利軍は奮い立ち、この地で義貞を破ると、翌年1月京に攻め上がった。しかしその間奥羽北畠顕家は兵を率いて尊氏不在の鎌倉を占拠すると、そのまま尊氏の後を追い西上、尊氏軍を撃破した。 更に豊島河原・打出浜合戦にも敗れた尊氏は海路九州へ敗走するが、その後多々良浜合戦に勝利し、勢力を回復すると光厳天皇を奉じて東上を開始、湊川合戦に勝利して入京を果たし、足利幕府(室町幕府)を開いた。 |
千束橋 官軍が退く際、橋を落とした為、 足利軍は薪を千束投げ入れ、 橋の代わりとして渡ったという |
竹之下合戦供養塔 興雲寺 |
有闘坂 |
戦ヶ入 | 釜沢 湧き水があり、ここで官軍が 兵糧を炊いたとされる |
陣場 官軍の先手がここに布陣した |