和田胤長屋敷

和田胤長屋敷わだたねながやしき
神奈川県鎌倉市二階堂
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--荏柄天神社--
別名          
交通 JR横須賀線「鎌倉駅」から徒歩25分。
築城年代 鎌倉時代
築城者 和田胤長
形式 屋敷
主な城主 和田胤長
鎌倉幕府侍所別当の重職を務めた和田義盛の甥で和田合戦の引き金となった和田胤長屋敷跡。
1213年(建暦3)2月、泉小次郎親衡は執権北条義時に対し、2代将軍源頼家の遺児である千手(寿)を擁して、謀反を企てた。計画は未遂に終わったが、参加者に和田一族が含まれており、和田義盛の子義直、義重、甥の胤長が加担したとして捕らわれる。義盛の嘆願により義直、義重は赦されたが、胤長は陸奥国岩瀬郡に配流となり、屋敷も没収となった。胤長の屋敷は荏柄天神社前にあった為、地の利も良く、多くの御家人が拝領を願い出、金窪行親・忠家に与えられる事となった。屋敷没収の際には一族に下賜されるという慣例を破られた義盛は挙兵を決意し、御所を襲撃した。その後由比ガ浜へ退き、援軍に駆けつけた横山時兼ら率いる横山党3千と共に奮戦するが、衆寡敵せず敗れ、義盛は討死、和田一族は滅び、その後流刑になっていた胤長も討たれた。「和田合戦
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和田塚

参考文献   「鎌倉合戦物語 雄山閣出版」
                   「中世都市鎌倉 遺跡が語る武士の都 講談社」
訪城回数 1
2016年1月