若槻里城

若槻里城わかつきさとじょう
長野県長野市大字若槻団地
Mapion

--里城公園・城址碑--
別名    
交通 JR信越本線「長野駅」からバス「若槻団地中央」下車。
バス停から徒歩10分。
築城年代 鎌倉時代初期
築城者 若槻頼隆
形式 平城
主な城主 若槻頼胤
鎌倉時代初期、八幡太郎源義家の孫にあたる若槻頼隆が、背後の山城と共に築城したと伝えられる。
頼隆の子、兄頼胤はこの里城を居館とし、子孫は押田氏(押田)、多胡氏(田子)に分流し、弟頼定は真光寺に居館を構え、子孫は西条氏と称した。
1404年(応永11)信濃守護代、細川慈忠の入信に反抗して高梨氏と共に争い、山城とこの城は陥落した。
1441年(嘉吉9)若槻氏は常陸国の結城合戦で再起し、幕府軍の五番陣の旗頭として高梨・須田・井上の諸氏と共に、関東まで出陣している。
戦国時代に入ると武田・上杉両氏の争いに巻き込まれ、1558〜69年(永禄年間)武田氏に攻められ、若槻氏は越後に逃れたといわれる。
本丸・二の丸跡は宅地化されており、堀跡が里城池として残るだけとなっている。

参考文献 「現地案内板」
                    「長野・山梨の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2008年10月