茨城県行方市麻生 --空堀-- |
別名 | |
交通 | JR鹿島線「潮来駅」からバス「筑波銀行麻生支店前」下車。 |
築城年代 | 鎌倉時代 |
築城者 | 麻生家幹 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 麻生氏 |
常陸大掾氏の庶流で行方氏の一族である麻生氏居城。 平安時代末期、行方郡は行方次郎忠幹(行方氏祖)が支配しており、1185年(寿永4)屋島合戦で忠幹の子である行方宗幹(景幹)が討死すると、その所領は四子が継いだ。麻生氏はこの時三男家幹が麻生に分封されて麻生氏を称した事に始まる。一方長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に小高に移住して小高氏、次男高幹は島崎に分封されて島崎氏、四男幹政は玉造に分封されて玉造氏となる。この子孫は「行方四頭」と呼ばれ、中世を通じて行方郡の中心勢力となった。 やがて常陸大掾家の統制力が弱まると、一族は相争うようになり、島崎城主島崎氏は最大の勢力となる。1584年(天正12)麻生氏17代常安(之幹)の時、島崎安定(義幹)に攻められ、麻生城は落城、麻生氏は滅亡した。 麻生氏を滅ぼした島崎氏はその後7年間麻生城を支配するが、1591年(天正19)常陸一国を安堵された佐竹義宣に謀殺されると麻生城には佐竹氏家臣である下河辺氏が入城し、1602年(慶長7)佐竹氏の出羽秋田への移封まで居城した。 1602年(慶長7)新庄直頼が3万3百石でこの地に入封し、麻生藩を立藩すると東400メートルに陣屋が設けられ、以後15代267年間新庄氏が続いた。 現在城址は羽黒山公園となる。公園化の際に改変を受けているようで遺構の多くが破壊されているが、麻生氏の菩提寺である常安寺裏手にあたる台地基部に二重の空堀と土塁が残されている。南麓には島崎安定(義幹)の妹と伝わる麻生常安(之幹)の正室が供養の為に建立したとされる本城薬師堂が建つ。 |
本丸 | 案内板 | 曲輪跡 |
空堀 | 土塁 | 土塁 |
常安寺墓地 | 麓を流れる城下川 | 本城薬師堂 |