1185年(寿永4)2月 源義経×平宗盛 --射落畠碑(佐藤継信戦死之地)-- |
交通 | 琴電志度線「八栗駅」下車。 |
1184年(寿永3)一ノ谷合戦に敗れた平氏は再び屋島に本拠を移すと、平知盛を大将とする別働隊を長門国彦島に置き、瀬戸内海の制海権を掌握しようとする。これに対し源頼朝は源範頼を九州へ向かわせ、東西挟撃を企図するが果たせず、源義経に屋島攻めを命じた。 1185年(寿永4)2月16日、暴風雨の中、義経は5艘、150騎を率いて摂津渡辺津を出航し、翌17日阿波勝浦に上陸した。この出航の際、義経と梶原景時が逆櫓論争し、これが後の景時の頼朝への讒言に繋がったとされる。 上陸後、義経は伊予河野氏攻略の為、手薄となっていた平家方の城を攻め落としながら行軍し、18日朝、屋島南対岸に着陣した。干潮時に屋島に渡れる事を知った義経は奇襲を決意し、屋島内裏へ一気に攻め込むと、海上からの攻撃を予想していた平氏軍は混乱し、内裏を捨て沖へと逃れた。 その後海上に逃れた平氏軍は源氏軍が少数である事を知ると船を降りて反撃に転じ、激戦となる。この時源氏方佐藤継信が義経の身代わりとなって平教経に弓で射られ討死したとされる。またこの合戦の最中、那須与一が扇の的を射たエピソードは良く知られている。 21日早朝、平氏軍は八栗半島の北を廻り、志度に上陸して源氏軍を背後から攻めようとする。これを察知した義経は80騎を率いて志度へ向かうと、源氏優勢と見た讃岐豪族や瀬戸内水軍が加勢し、志度寺付近で平氏軍に壊滅的な打撃を与えた。その後景時軍が到着すると、平氏は再び海上へ逃れ、彦島へ撤退し、壇ノ浦合戦に敗れた。 |
佐藤継信墓 |
義経愛馬・太夫黒墓 |
長刀泉 武蔵坊弁慶が長刀で掘った 井戸とされる。 |
瓜生ヶ丘 源氏本陣跡 |
総門跡 平氏はこの地に門を設け、 海辺の防御に備えた。 |
景清錣引伝説案内板 太刀が折れて逃げる美尾屋十郎の 兜を悪四郎景清が熊手で引き、 錣が千切れたとされ、景清の剛勇と 十郎の首の強さを互いに称賛したと 伝わる。 |
祈り岩 那須与一が扇の的を射る際、 この岩の所で成功を祈ったと伝わる。 |
駒立岩 那須与一が海の中のこの岩まで駒を 進め、的を射たとされる。 |
菊王丸墓 佐藤継信が平教経の弓に倒れた際、 教経に仕える菊王丸は首を取ろうと したが、継信弟の忠信に弓で射られ、 討死した。 |
安徳天皇社 行宮跡とされ、付近には兵舎等が 設けられた。 |
佐藤継信碑 |
逆櫓乃松跡碑 大阪府大阪市福島区 |