1467年(応仁1) 畠山義就×畠山政長 --応仁の乱勃発地碑-- |
交通 | 京都市営地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」から徒歩5分。 |
応仁の乱が勃発する前後、将軍足利義政は弟義尋を還俗させると義視と名乗らせ、次期将軍としての地位を誓約する。しかし間も無く義政夫人の日野富子に義尚が生まれた事により、2人の家督候補が出現する事となった。義政は前に義視と誓紙を交わした手前、退ける訳にはいかず、細川勝元を後見人とし、一方富子は山名宗全(持豊)に義尚の擁立を画策する。 同じ頃、畠山氏・斯波氏においても家督争いが起こり、勝元と宗全を中心とする二大派閥が形成、対立するようになった。 1467年(応仁1)1月17日夜、管領を罷免された畠山政長は、自邸に火を放つと、2千の兵を率いてこの地に布陣した。翌18日早朝、政長と家督を争う畠山義就は宗全らの援助を受け、政長を攻める。宗全が孫の政豊や斯波義廉らを支援に向かわせたのに対し、勝元はこの時静観しており、頼みの勝元の援助を受けられなかった政長は、夜に入って上御霊神社に火を放ち逃れた。一説に勝元邸に匿われていたともいわれる。 その後勝元と宗全はそれぞれ各地の守護大名に召集をかけ、相国寺に本陣を置いた東軍勝元に対し、自邸に本陣を置いた宗全は西軍と呼ばれ、これからおよそ10年間、東西に分かれ洛中市街戦が始まる事となり、京の町の大半が焦土と化した。 その後勝元・宗全両雄の死により京での戦いは見られなくなるが、争乱は地方へ拡大していく事となった。 |
上御霊神社 | 相国寺 |
花の御所碑・大聖寺 |
山名宗全邸碑 |
西陣碑 西陣の地名は西軍宗全が 一帯に陣した事に由来する |
船岡山に立つ応仁・永正戦跡碑 |