山名宗全屋敷

山名宗全屋敷やまなそうぜんやしき
京都府京都市上京区山名町
Mapion

--山名宗全邸碑--
別名     
交通 京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」から徒歩15分。
築城年代 室町時代
築城者 山名氏
形式 屋敷
主な城主 山名宗全(持豊)
山名氏は新田義重の子で上野国山名郷を本貫地とした山名義範を祖とし、時氏の時、足利尊氏に従い、六波羅攻めの為、西国へ向かった。その後建武の親政、南北朝の動乱に於いて活躍し、5ヶ国の守護大名となる。そして時氏没後、但馬国此隅山城を本拠とし、全国66ヶ国の内、但馬・因幡・丹波・美作国等、一族で全国の6分の1に相当する11ヶ国を領した為、「六分一殿」といわれる程の勢力を誇った。
1391年(明徳2)明徳の乱で一族は相争い、伯耆・因幡2ヶ国のみとなるが、1433年(永享5)山名宗全(持豊)の頃、勢力は大きく回復し、1441年(嘉吉1)嘉吉の乱において播磨国城山城に赤松満祐を攻め討つと、赤松氏旧領も本国に加え、山名氏最盛期を築いた。
1450年(宝徳2)子の教豊に家督を譲るが、依然として一族の実権を掌握し、1467年(応仁1)御霊林合戦に始まる応仁の乱では、足利義尚を擁してこの邸宅を本陣とし、足利義視方で相国寺を本陣とする細川勝元と東西に分かれて争った。今も残る西陣の地名はこの事に拠る。応仁・文明の戦乱により、この地にあった山名家代々の邸宅は焼失、1473年(文明5)宗全は陣中で没し、その後山名氏の勢力は衰退した。

参考文献 「現地案内板」
                  「歴史群像シリーズ 学研」   
訪城回数 1
2009年6月