岩手県花巻市城内11 --復元された本丸西御門-- |
別名 | 鳥谷ヶ崎城 |
交通 | 各線「花巻駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 1591年(天正19) |
築城者 | 北秀愛 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 北信愛 |
花巻城はかつて鳥谷ヶ崎城といわれ、前九年の役の際、安倍頼時の城柵と伝えられ、また清原武則の城柵とも伝えられる。 中世に入り、稗貫氏がこの地方を領し本城とした。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、稗貫氏は参陣しなかった為に領地を没収され、鳥谷ヶ崎城には浅野長政の家臣浅野重信が入城した。 時の稗貫氏当主は和賀氏からの婿養子の孫次郎広忠で、旧領回復を目指し、和賀・稗貫の和賀氏残党を集め蜂起し、二子城、次いでこの鳥谷ヶ崎城を奪還するが、翌年蒲生氏郷勢に敗れた。「和賀・稗貫一揆」 稗貫・和賀2郡は南部氏一族である北秀愛が領し、この時城下は整備され、名も花巻城と改められる。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、奥羽においても上杉景勝の兵乱が起こり、南部信直は出羽国へ出陣した。この時伊達領胆沢に潜伏していた和賀忠親は再び旧領回復を目指して蜂起し、二子城を拠点として花巻城を攻めた。「岩崎一揆」 一揆勢は御台所前御門まで攻め寄せ、この時城内は子秀愛没後に跡を継いだ父信愛と僅か13名の兵、そして婦女子だけであったが、城下の町民の支援もあり、援軍到着まで守りきった。「花巻城夜討ち」 1613年(慶長18)信愛が91歳で亡くなると、南部利直の2男政直が入城し、花巻城を近世城郭として整備した。 1869年(明治2)花巻城は廃城となり、1873年(明治6)本丸御殿を始めとする一切の建物は取り払われた。 二の丸・三の丸は宅地やグラウンドとなるが、本丸は西御門が復元され、堀や土塁が比較的良好に残されている。 |
早坂御門跡 | 御長屋跡 | 本丸 |
本丸土塁 | 本丸井戸跡 | 本丸御台所門跡 |
御囲穀御蔵前堀跡 | 鐘搗堂前堀跡 | 二の丸・御役屋跡 |