岩手県北上市二子町渋谷 --主郭西下横堀-- |
別名 | 飛勢城 |
交通 | JR東北本線「村崎野駅」から徒歩40分。 |
築城年代 | 室町時代初期 |
築城者 | 和賀氏 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 和賀忠親 |
和賀郡領主であった和賀氏本城。 和賀氏がこの地に二子城を築いた年代については諸説あり、1191年(建久2)和賀氏の祖多田式部大輔忠明が宮城県多田郡より更木梅ヶ沢へ移り、その後この地に移ったといわれる。また和賀氏は横山党小野姓中条氏を出自とし、平姓和田氏から苅田氏となった苅田義季の系ともいわれ、義行は和賀氏を称すると、黒岩の岩崎城を本拠とした。そして弟義春も小田島氏から和賀氏に改め、この地を本拠としたともいわれる。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、和賀氏は参陣しなかった為に領地は没収され、この地は南部氏の知行となる。その後和賀・稗貫の和賀氏残党は旧領回復を目指して蜂起し、二子城、そして鳥谷ヶ崎城を奪還するが、蒲生氏郷勢に敗れた。「和賀・稗貫一揆」 1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、奥羽においても上杉景勝の兵乱が起こり、南部信直は出羽国へ出陣した。この時伊達領胆沢に潜伏していた和賀忠親は再び旧領回復を目指して蜂起し、二子城を拠点として花巻城を攻めるが、攻略出来ず、岩崎城へ逃れた後、自刃あるいは伊達政宗に暗殺されたといわれる。「岩崎一揆」 この岩崎一揆は関ヶ原合戦の混乱に乗じて勢力拡大を目論む伊達政宗が和賀氏を扇動したものとされ、この事から徳川家康から約束されていた関ヶ原合戦勝利の行賞50万石の加増(100万石のお墨付)は反故となり、伊達62万石がこれ以後の伊達累代領地として決定する事となる。 城址は八幡社と秋葉社がそれぞれ建つ2つの小山(通称飛勢の森)を詰城・物見とし、その周囲麓には平時居館や家臣屋敷が配置されており、現在も堀や土塁が残されている。 |
城址南西麓 渋谷屋敷・大森屋敷付近 |
詰城(現八幡社)から麓に伸びる堀跡 この辺りは破壊されているが、藪の 中には竪堀が今も確認出来る。 |
詰城・物見間を通る道路 左が物見、右が詰城 |
詰城主郭 | 主郭から北側の眺め | 主郭北堀切 |
居館跡である白鳥館(白鳥神社) |
白鳥館 | 御台方屋敷跡 |