長谷堂城の戦い

長谷堂城の戦い
山形県山形市大字長谷堂

1600年(慶長5)
最上義光・伊達政宗×直江兼続
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--長谷堂城--
交通 JR奥羽本線「蔵王駅」から徒歩40分。
1600年(慶長5)6月、徳川家康は上杉景勝を討つべく会津遠征を起こし、先手を命じられた北奥諸将は天童付近まで南下する。しかし先手総大将であった山形城主最上義光は日和見的な態度を取り続けていた。やがて石田三成が挙兵すると家康はUターンして西へ向かい、また白石城を攻略した伊達政宗は景勝と一時的な和睦をしてしまう。
9月、上杉方直江兼続率いる第一軍2万は狐越街道、横田旨俊・本村親盛率いる第二軍4千は羽州街道、庄内方面から志駄義秀・下吉忠率いる第三軍3千がそれぞれ最上領へ侵攻する。13日兼続本隊は畑谷城を攻略し、翌14日、長谷堂城北西にある菅沢山に本陣を置く。
そして関ヶ原合戦と同日である9月15日から志村伊豆守以下5千が籠もる長谷堂城は兼続勢に攻められるが、多数の死者を出すも善戦し、持ちこたえていた。
10月1日、関ヶ原での西軍敗報を知った兼続勢は撤退を開始すると、義光と政宗方援軍の留守政景はこれを追撃し激戦となる。この時義光は鉄砲で兜を撃たれたといわれ、弾傷が残り破損した兜は最上義光歴史館に展示されている。一方羽州街道から侵攻した第二軍も上山城を落とせず敗走、庄内方面から侵攻した第三軍は周辺諸城を落とし、山形城へ迫っていたが、兼続勢が撤退した為、志駄義秀は退却、下吉忠は谷地城に包囲され、降伏した。
その後最上義光は庄内へ侵攻し、尾浦城を攻略すると、翌年志駄義秀が守る東禅寺城も落とし、庄内地方を領有する。そして徳川家康より攻め取った庄内地方を併せ、57万石の大封を得る事となった。対して敗者となった上杉景勝は会津120万石から、米沢30万石に減封となる。
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菅沢山直江本陣跡
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主水塚
不世出の剣豪と称された直江方
上泉主水泰綱が討死した所とされる
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加藤掃部左エ門の碑
伊達政宗の生母保春院の警護役で
あった最上家家臣。畑谷城主江口五
兵衛とは昵懇の仲であり、この付近で
討死した
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上り亀・下り亀
長谷堂城・須川岸付近の戦いでの
戦死者を葬った塚ともいわれる
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湯目加賀守の碑
伊達政宗の命により来援し、
遅沢川付近で上杉勢と奮戦討死した
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山形城に立つ最上義光像
出羽合戦の際、義光自ら陣頭となり
合戦へ赴く姿が再現されている

参考文献  「現地石碑文」
               「歴史群像シリーズ 学研」
                                    「天地人 決戦 出羽の関ヶ原 山形市・最上義光歴史館HP」
2010年3月