戸次川古戦場

戸次川古戦場
大分県大分市大字上戸次

1586年(天正14)12月
島津家久×四国連合軍
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--長宗我部信親墓所--
交通 JR日豊本線「大分駅」からバス「嶺」下車。
バス停から徒歩1分。(長宗我部信親墓所・十河一族慰霊碑)
1578年(天正6)高城川合戦において大友氏は島津氏に大敗し、有力家臣の多くを失った。以後島津氏が優位に立つ事となり、豊後に侵攻する構えを見せるようになった。
1586年(天正14)独力で島津氏に抵抗出来ない大友宗麟は大坂へ上り、豊臣秀吉に救援を願い出ると、これを知った島津氏は、豊臣氏来援の前に大友氏を討つ事を決め、島津義久・家久は日向路、島津義弘は肥後路から豊後に侵攻を開始した。
島津氏は城主利光宗魚が肥前への遠征の為不在であった鶴賀城を激しく攻め立てるが、城兵は良く持ち堪えていた。やがて豊臣秀吉が後詰として派遣した長宗我部元親・信親父子率いる土佐勢3千・十河存保率いる讃岐勢2千・目付の仙石秀久率いる淡路勢1千からなる四国勢、そして大友義統が来援し、鏡城に着陣した。ここで秀久は元親らの慎重論を一蹴し、鶴賀城救援を決定し、大野川の渡河を開始した。
これに島津勢は鶴賀城城下へ引き付けた敵を主力で引き受け、山間を迂回する右翼、そして大野川左岸を迂回する左翼で包囲する作戦を取る。激しい争いの末、主将の秀久は敗戦と分かると早々に離脱し、義統も宇佐の妙見城まで敗走、長宗我部・十河勢のみが奮戦する形となった。存保は討死し、また元親と分断された信親も島津勢に討ち取られ、元親はかろうじて沖浜から船に乗り、日振島まで逃れた。
更に島津氏は宗麟が拠る臼杵城を攻めているが、1587年(天正15)3月、豊臣秀吉の九州征伐の報を知ると豊後から撤退、そして根白坂での対陣で豊臣氏に屈する事となった。
鎧塚 十河一族慰霊碑 Mapion
長宗我部信親終焉の地
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秋月神社・古井戸
援兵であった秋月重治は敵兵に
追われると付近の百姓に口止めをし
井戸に身を投げた。やがて井戸に
美しい水が出るようになったという。
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利光宗魚墓所・成大寺境内
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鶴賀城から見る古戦場一帯

参考文献 「現地案内板」
              「歴史群像シリーズ 学研」
2010年10月