1587年(天正15) 島津義久×豊臣秀長 --根白坂古戦場-- |
交通 | 東九州道「高鍋IC」から車で15分。 |
1586年(天正14)島津氏は岩屋城を落とし、戸次川合戦では大友宗麟の要請を受け、豊臣秀吉が派遣した仙石秀久率いる四国勢を敗った。更に島津氏は宗麟が拠る臼杵城を攻め立てた。 1587年(天正15)3月、豊臣秀吉は九州征伐に乗り出し、秀吉は筑前・筑後・肥後方面から、弟の秀長は豊後・日向方面から南下する。この報に府内にいた島津義弘・家久らは薩摩・大隈・日向の守りを固める為、日向・肥後の2方面に分かれ、豊後から撤退した。 4月6日、松山塁に本陣を置いた秀長は8万の大軍で51ヶ所の陣を設け、高城を包囲する。更に高城や高城川を見下ろせる絶好の地にある根白坂には島津氏の後詰に備える為に陣城を築き、宮部継潤・黒田孝高(官兵衛)・木下重堅ら1万5千が布陣した。 4月17日、島津義久・義弘らは2万の兵を率い、要地である根白坂を奪還すべく夜襲を仕掛けるが、継潤はあらかじめ堀や土塁、柵を設け、鉄砲隊を配置していた為、島津方は忠隣が鉄砲で撃たれ討死する等大打撃を受け、柵を突破出来ず退いた。 21日勝算がないと判断した義久は余力のある内に伊集院忠棟を人質として秀長に秀吉への取り成しを要請した。5月8日、剃髪した義久は川内泰平寺で秀吉に謁見し降伏、大隈・日向諸県郡領を安堵された。 |
根白坂(椎木坂) 標柱が立ち坂の上に案内板がある |
高城 山田有信以下3百、寄騎を合わせて 1千5百程度の兵で拠っていた。 |
高城から見る根白坂台地 |