1578年(天正6) 島津義久×大友宗麟 --松山塁麓から見る高城-- |
交通 | JR日豊本線「高鍋駅」からバス「木城」下車。 |
1577年(天正5)薩摩・大隈を平定した島津氏は日向に侵攻した。木崎原で島津氏に大敗を喫し、衰退の一途を辿る伊東義祐はこれを防ぎきれず、孫義賢・祐兵らを伴い、僅かな人数で義賢の母が大友宗麟の姪である関係を頼り、豊後の宗麟の下へ落ち延びた。 1578年(天正6)1月、宗麟は島津氏に与した土持氏を討つ為、義統率いる3万の大軍を松尾城に送り、土持氏は滅亡した。そして同年8月、大友宗麟は伊東氏の旧領回復、そして日向国にキリシタン国を創るべく、5万の大軍を率い日向国に侵攻した。 11月宗麟自身は務志賀本陣に留まり、田原紹忍、佐伯宗天らを進軍させた。大友勢は高城に対峙する台地に野久尾ノ陣・松山塁本陣・田間之陣・河原之陣・松原之陣の5つの陣を設け、山田有信以下僅か5百名が拠る高城を包囲すると、城下に火を放ち、松山塁からは2門の国崩を用い攻めた。有信は島津家久1千人の援軍もあり高城をよく守った。 そこへ島津義久率いる4万が到着し、南方佐土原に着陣した。務志賀本陣に兵を裂いている大友勢は島津勢と兵力はほぼ同数で勢力は伯仲していたが、佐伯宗天らの務志賀本陣の宗麟に連絡をとってからという言を、主戦派の田北鎮周は無視し、独断で高城川(現小丸川)を渡り、島津勢に攻撃を開始した。残された大友勢も動かざるを得なくなり攻撃を仕掛けるが、島津勢はこれを包囲し、伸び切った大友勢に島津忠平・忠棟らが横槍を入れると、根白坂本陣義久も突撃を開始し、更に高城からは有信も兵を繰り出すと、大友勢は混乱し敗走した。 島津勢は耳川まで追撃し、大友勢は溺死する者も多く、多数の死者を出した。 この合戦により大友氏は有力な将を多数失い、また有力国人の離反も相次ぎ、勢力を大きく落とす事となった。 |
務志賀本営 宗麟・義統父子はここを動かず 田原紹忍らに指揮を任せていた |
高城から見る大友軍松山塁本陣 松山塁から国崩で砲撃されたが 城中には届かなかったという |
根白坂 島津義久本陣 1587年には豊臣方宮部継潤が陣した |
宗麟原供養塔 合戦後島津義久は山田信介有信に 敵味方区別無く弔うよう命じた |
島津側から(根白坂台地) |