比叡尾山城

比叡尾山城ひえびやまじょう
広島県三次市畠敷町
Mapion
登山口地図
--本丸--
別名 畠敷城・比海老城
交通 JR芸備線「三次駅」からバス「熊野神社口」下車。
地図の地点、熊野神社東から登山道があります。
地図に表記される比叡尾城の位置は間違い、西の山が城址。
築城年代 鎌倉時代
築城者 佐々木秀綱又は藤原兼範
形式 山城
主な城主 三吉氏
1221年(承久3)承久の乱後、備後国三次に下向した藤原鎌足後裔である藤原兼範により築かれたとされ、その子兼定が三吉氏を称したといわれるが、1192年(建久3)源頼朝による奥州征伐の戦功により備後国三次の地頭職を得た佐々木秀綱により築かれたという説もある。
3代兼家代・4代信兼の頃、三次周辺に所領を広げ、5代秀高は後醍醐天皇に従い、後に足利直冬に属した。
室町時代、三吉氏は守護山名氏、戦国時代には大内氏に従うが、月山富田城主尼子氏の勢力拡大に伴い、尼子方に転じた。13代致高は吉田郡山城主毛利氏と度々争い、1540年(天文9)尼子氏による郡山城攻めにも従軍するが、間も無く大内氏方に転じ、1543年(天文12)大内義隆による月山富田城攻めに参加した。
1544年(天文13)7月28日、比叡尾山城を攻める為、布野に着陣した尼子国久・誠久・敬久ら率いる尼子軍に、来援した毛利軍は攻めかかるが、大敗を喫した。しかし翌日、致高は5百の兵を率いて尼子軍を奇襲し、勝利した。「布野崩れ
1553年(天文22)致高・隆亮父子は毛利元就・隆元宛に誓紙を出し、以後毛利氏に従属する事となる。
1591年(天正19)15代広高の時、新たな本拠として比熊山城を築いて移り、比叡尾山城は15代400年続いた三吉氏本城としての役割を終えた。
備北地方有数の規模を誇る山城で現在見られる姿は中世を通じて徐々に拡張されたものと考えられている。広大な本丸から南に延びる尾根に二の丸・三の丸を設け、東に並行する尾根上にも階段状に曲輪を配している。本丸北東曲輪群は屋敷地があったと推定され、規模の大きい石垣も見られるが、付近は後に畑や水田として利用されていたといわれ、遺構かは不明。熊野神社東に当時の大手道とされる登山道がある。
三の丸虎口 三の丸 三の丸土塁
三の丸・二の丸間堀切 二の丸 本丸下段
本丸虎口に残る石積み 本丸土塁 北の丸
北の丸南虎口 北の丸西下竪堀 石組
屋敷跡 屋敷跡石垣 南から城址遠望

参考文献 「現地案内板」
                    「広島・岡山の城郭 新人物往来社」 
訪城回数 1
2019年12月