月山富田城

月山富田城がっさんとだじょう
島根県安来市広瀬町富田
Mapion

--三の丸石垣--
別名 月山城
交通 JR山陰本線「安来駅」からバス「ショッピングセンター前」下車。
登山口まで徒歩10分。
築城年代 室町時代
築城者       
形式 山城
主な城主 尼子晴久・尼子義久
月山富田城の創建については諸説あるが、1185年(文治1)源頼朝が近江源氏佐々木高綱の弟義清を出雲国守護に任命して以来、佐々木氏が富田に館を構えた事に始まるという。
4代目義清の孫頼泰は塩冶大廻城に居城して塩冶氏を称し、富田には守護代を置いた。1333年(元弘3)6代目高貞は後醍醐天皇の船上山挙兵に応じ、その後近江国柏原を本拠とする宗家京極道誉(高氏)と共に足利尊氏に従い、北朝方として足利政権樹立に活躍するが、やがて高師直と対立し、因幡・伯耆守護山名時氏に滅ぼされると、一時佐々木氏は出雲国から排除される。
1391年(明徳2)明徳の乱後、山名氏の敗北により出雲国は再び佐々木氏(京極氏)の勢力下になり、出雲守護となった京極佐々木高詮は近江国犬上郡尼子荘の一族尼子持久を守護代として下向させると、以後月山富田城は尼子氏歴代の居城となった。
1484年(文明16)3代経久の頃、宗家京極政経と対立し、守護代を罷免され、月山富田城を追われるが、1486年(文明18)代わって守護代に就いた塩冶掃部介を攻め滅ぼし、富田城を奪取すると戦国大名へと成長し、11ヶ国に及ぶ地域を勢力下に置いた。
1540年(天文9)4代晴久は安芸郡山城に遠征し、毛利元就を攻めるが敗北、1543年(天文12)逆に大内義隆に月山富田城を攻められるが、撃退している。
1565年(永禄8)4月、月山富田城は毛利元就率いる2万5千の大軍に包囲される。その一方で元就は月山富田城を孤立させる為、支城の各個撃破を図り、8月6日江美城を落とし、9月3日には八橋城を落とした。翌年11月、義久は富田城を開城し、これにより戦国大名としての尼子氏は滅亡した。
富田城は山陰における毛利領国の府城として、天野隆重・毛利(富田)元秋・毛利(末次)元康が入城し、更に吉川元春・吉川広家と続いた。広家は富田城が山奥で不便であった事から米子城の築城を開始するが、
1600年(慶長5)関ヶ原合戦後周防国岩国に移った為、未完に終わっている。広家に代わって遠江国浜松城から堀尾吉晴・忠氏父子が入城するが、堀尾氏もまた富田城が交通の便が悪く、城下町を経営するのに狭い事等から松江城の築城を開始した。1611年(慶長16)堀尾氏3代忠晴の頃、完成した松江城へ移ると、富田城は廃城となった。
尼子氏時代馬場跡 花の壇堀切 花の壇
菅谷口石垣 山中御殿跡 山中御殿跡石垣
山吹井戸 三の丸石垣 内側から見る二の丸虎口
二の丸 本丸から見る本丸・二の丸間堀切 本丸・二の丸間堀切に残る石垣
本丸 本丸に立つ山中鹿之介(幸盛)碑 本丸から北の眺め

参考文献 「現地案内板」
                        「鳥取・島根・山口の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2012年10月