日野江城

日野江城ひのえじょう
長崎県南島原市北有馬町戊
Mapion
大手入口地図

--二の丸石垣--
別名 日之江城・日ノ江城・日江城・火ノ江城
交通 島原鉄道線「島原駅」下車。
「島原駅前」バス停からバス「橋口」下車。
地図の地点に大手入口があります。
築城年代 1213〜19年(建保年間)か
築城者 有馬経澄か
形式 山城
主な城主 有馬晴信
1213〜19年(建保年間)藤原純友6代の後裔と称する有馬氏初代、藤原経澄により築かれたと伝えられるが、その構造から14世紀、南北朝時代の築城と考えられる。
1539年(天文8)有馬晴純の頃、肥前屋形号を許され、また勢力範囲も高来・藤津・杵島・神埼・三根・佐賀の6郡まで及び、名実共に肥前の中心地となった。その後龍造寺氏の台頭により勢力範囲は島原半島に限定されたが、1580年(天正8)キリシタン大名として有名な13代晴信の頃、城下にセミナリヨが創立され、キリスト教布教の中心地として重要性を持つようになる。また豊臣政権下、有馬氏は4万石の大名に過ぎなかったが、二の丸からは金箔瓦が出土しており、中央と密接な関係にあった事が伺える。
1614年(慶長19)有馬直純が日向延岡城へ移った後、大和五条から松倉重政が入城し、森岳城を築くと、日野江城は廃城となった。
大手口石垣 二の丸 二の丸櫓台跡
二の丸石垣 階段遺構跡
直線100メートル以上に及ぶ安土城
大手道にも類似する階段遺構が見
つかった。現在は埋め戻されている。
本丸下石垣
本丸 本丸上段 南西麓・札の辻
セミナリヨ・イエズス会本部が置かれ、
日本布教の中心地の一つであった
この通りを宣教師ルイス・フロイスは
「細く長く美しい通り」とローマに報告
している

参考文献 「現地案内板」
                    「長崎・佐賀の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2011年9月