静岡県伊豆の国市寺家 --北条館東・北条政子産湯井戸-- |
別名 | |
交通 | 伊豆箱根鉄道駿豆線「韮山駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 平安時代末期 |
築城者 | 北条時家 |
形式 | 館 |
主な城主 | 北条時政 |
守山北麓一帯が北条時政館址とされ、父時家の頃からこの地に居住したとされる。北条氏は1028年(長元1)村岡五郎良文の孫平忠常が安房国で反乱を起こした時、追討使として京より下向し、鎌倉を本拠とした平直方の子孫とされる。忠常討伐を果たせず、職を解任された直方の子孫が伊豆国北条に土着したのだというが、詳細は不明である。 1160年(永暦1)平治の乱に敗れた源義朝の子頼朝がこの地に配流されると、時政は監視役となるが、やがて娘政子が頼朝と恋仲になる。初め時政は反対したが、その後2人の婚姻を認めると、頼朝の後ろ盾となり、1180年(治承4)8月、頼朝が以人王の平家討伐の令旨を受け、挙兵すると、時政も従った。1199年(建久10)頼朝死後、時政は有力御家人を次々と排斥し、鎌倉幕府初代執権として勢威をふるうが、後に子義時との確執により再びこの地に戻って隠居し、1215年(建保3)1月8日没した。 その後も北条氏は執権職を代々世襲し、鎌倉幕府の実権を握るが、1333年(元弘3)14代執権北条高時の時、新田義貞に鎌倉を攻められ、北条氏一族は滅亡した。 1458年(長禄2)この地に堀越御所が置かれるが、その際北条館の一部が復興利用されたと考えられる。 ●蛭ヶ小島・源頼朝配流の地 往時は大小の中洲が一帯に存在し、その一つが蛭ヶ島であったと考えられる。旗揚げの際には妻の政子の父時政の北条館に居住し、挙兵準備をしたとされる。 |
成福寺 時政が頼朝と政子の為に建てた別邸 はこの辺りであったという。 |
北条氏一族墓所 | 蛭ヶ小島 源頼朝配流の地 |