兵庫県朝来市生野町口銀谷 --案内板-- |
別名 | 生野平城 |
交通 | JR播但線「生野駅」から徒歩5分。 |
築城年代 | 1542年(天文11) |
築城者 | 山名祐豊 |
形式 | 陣屋 |
主な城主 | 生熊左兵衛尉国利・伊藤石見守・清野与右衛門 |
1542年(天文11)山名祐豊の時、城山の南表で銀石が掘り出されると、生野銀山経営の為、生野城は改修された。同時に山麓に平城(居館)が築かれ、三層の天守閣や隅櫓、外堀が設けられ、侍屋敷、町屋、寺社が整備されたといわれる。 その後銀山の経営は太田垣、織田、豊臣氏と替わり、1600年(慶長5)関ヶ原合戦以降、徳川家康が天領として支配するが、この平城は代官所として利用された。太田垣氏時代は京正阿弥、次いで杉原七郎左衛門が滞在し、織田氏時代は生熊左兵衛尉国利、豊臣氏時代は伊藤石見守が代官を務め、江戸幕府時代には間宮新左衛門を初代として奉行10代、清野与右衛門を初代として代官28代と続き、時の権力者はすべて「直轄地」として生野銀山を掌握した。 1629年(寛永6)天守閣や隅櫓は廃されたが、その後も銀山経営の拠点として明治まで続き、1869年(明治2)生野県設置に伴い、代官所は県庁舎となった。1871年(明治4)生野県が豊岡県に統合されると建物は撤去され、城壁と建物を残すのみとなり、その後大正末期にはすべて取り壊された。 現在生野代官所跡は生野小学校敷地となり、一画に案内板や生野義挙碑が立つのみとなっている。 ●生野義挙(生野の変) 1863年(文久3)10月、徳川幕府に不満を抱く勤皇の志士が大和天誅組に呼応し、長州から澤宣嘉を総帥に迎え、但馬の農民と共に生野代官所を占拠して挙兵した。しかし僅か3日で破陣し、参加した同志並びに農民幹部の多くは処刑され、生存者は数名だったというが、「生野の義挙は維新の魁」といわれるように明治維新の口火を切る事件であった。 |
生野小学校 | 生野義挙碑 |