生野城

生野城いくのじょう
兵庫県朝来市生野町口銀谷
Mapion

--三の丸--
別名 生野古城・御守殿
交通 JR播但線「生野駅」から登山口まで徒歩15分。
南西麓、びわの丸健康公園から登山道があります。
築城年代 1394〜1428年(応永年間)
築城者 山名時熙
形式 山城
主な城主 山名祐豊・太田垣朝延・輝延
1394〜1428年(応永年間)但馬国守護山名時熙が播磨国赤松満祐の但馬侵入に備え、播但国境であるこの地に築いたものと考えられる。
1441年(嘉吉1)時熙の子である持豊(宗全)の時、嘉吉の乱が起こり、山名氏は城山城に赤松氏を攻め滅ぼすと赤松氏旧領の播磨・備前・美作国を領有し、それに伴い生野城の必要性も一旦失われたと考えられる。
1542年(天文11)山名祐豊の時、城山の南表で銀石が掘り出されると、生野銀山経営の為、生野城は改修され、山麓に平城(居館)が築かれている。
1556年(弘治2)竹田城主太田垣朝延は山名氏から離反して生野城を乗っ取り、生野銀山を領有している。
1577年(天正5)織田信長の命を受けた羽柴秀吉の但馬侵攻により竹田城が落城すると、生野銀山確保の為、生野城は改修・利用されたものと考えられる。その後但馬国が制圧された1580年(天正8)以降、廃城になったと思われるが、山麓の平城は信長の銀山経営の拠点となり、代官として生熊左兵衛尉国利が派遣された。1582年(天正10)本能寺の変後、秀吉は直轄地として伊藤石見守が代官を務め、1600年(慶長5)関ヶ原合戦以降、徳川家康が天領として支配した。
標高601メートル、古城山山頂に築かれた本丸を中心とし、西方の但馬街道に向けて二の丸・三の丸が並び、各尾根にも多くの曲輪が設けられており、堀切や土塁、石積みが良く残されている。
別曲輪 三の丸堀切 三の丸石積み
二の丸 南方の眺め 本丸
東曲輪堀切 東曲輪 東曲輪土塁
北東尾根・竪土塁 北東曲輪 南西から城址遠望

参考文献  「ひょうごの城 神戸新聞総合出版センター」
   「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2019年12月