房総里見氏初代義実により築かれたとされる。義実は父家基と共に鎌倉公方足利持氏に仕えたが、1441年(嘉吉1)結城合戦に敗れると、安房へ逃れ、房総里見氏の祖となったといわれる。はじめ白浜城に拠った義実は千田城を経て、1486年(文明18)6月よりこの稲村城の築城を開始したが、間も無く死去した。その為子成義が引き継ぎ、1491年(延徳3)完成したとされる。 1518年(永正15)3代義通が亡くなると、嫡子竹若丸(義豊)が幼少であった為、15歳の元服までと一時的に弟実堯が跡を継いだ。しかし義豊は実堯が元服後も実権を譲らなかった為、1533年(天文2)稲村城を攻めて実堯を自刃させると、里見氏5代となった。しかし翌年父を討たれた実堯の子義堯は犬掛合戦で義豊軍を破ると、敗走する義豊軍を追って稲村城を囲み、義豊は自刃した。こうして内紛を収めた義堯はその後(1540年(天文9)代か)稲村城を廃し、久留里城に本拠を移したとされる。 九重駅から西側に見える城山が城址。築城時は基本的に主郭だけの単郭構造であったが、徐々に拡張されたものと考えられており、支尾根にも複数の曲輪が設けられている。里見氏移転後、稲村城は使用されなくなったとされ、戦国時代前期の貴重な遺構と評価されている。 |