茨城県結城市結城 --西館・館(城跡公園)間堀-- |
別名 | 臥牛城 |
交通 | JR水戸線「結城駅」から徒歩30分。 |
築城年代 | 1183年(寿永2) |
築城者 | 結城朝光 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 結城氏朝 |
1183年(寿永2)源頼朝より下総国結城郡を与えられた小山城主小山政光4男である朝光が築いた事に始まる。 1409年(応永16)跡目争いに端を発する上杉禅秀の乱が起こり、関東は戦乱に突入するようになる。1439年(永享11)禅秀の乱を静めた鎌倉公方足利持氏は室町幕府足利義教と対立するようになり、2月鎌倉を攻められ自害した。この時結城家11代氏朝は持氏の遺児春王丸・安王丸を保護し、結城城に籠もった。幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じ、結城氏は激しく抵抗するが、1441年(嘉吉1)1年余りの籠城戦の末に氏朝・持朝父子らは討死、結城城は落城した。春王丸と安王丸は女装に身を変じ、城を脱出するが、外城の戸張地内で上杉兵庫頭清方に女装を見破られ、捕らわれの身となり、護送中美濃垂井にて処刑された。 その後一人逃亡し、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の4男七郎が13代成朝を称して旧領を回復、戦国時代には周辺豪族を傘下に組み入れ、16代政勝の頃には結城・下妻・下館・長沼・小山等にまで及ぶ勢力を確立し、結城氏は戦国大名に成長した。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、17代晴朝も参陣し、10万石の大名としての地位を認められる。晴朝は徳川家康の次男秀康を養子とし、1601年(慶長6)越前国福井に67万石の大名として転封になった。 結城氏の転出後、結城城は廃城となるが、1700年(元禄13)水野勝長の入部により再興され、明治に至るまで水野家の居城となった。 |
中城・館(城跡公園)間土橋 | 中城・館(城跡公園)間堀 | 館に建つ聡敏神社 |
三日月橋 | 西館・館(城跡公園)間堀 | 北側の眺め |
北(実城跡、消滅)から館遠望 | 慈眼院結城家御廟 |
戸張町・地蔵尊 後年戸張で捕らわれた2人を憐れみ、 建立されたものと考えられる |