石神城

石神城いしがみじょう
茨城県那珂郡東海村大字石神内宿
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--二郭・三郭間空堀--
別名   
交通 JR常磐線「東海駅」から徒歩30分。
築城年代 1490年(延徳2)
築城者 石神(小野崎)通老
形式 平山城
主な城主 石神氏(石神小野崎氏)
石神小野崎氏居城。
小野崎氏は平安時代に秀郷流藤原氏として常陸国久慈郡に勢力を張っていたが、源義光の久慈郡佐竹郷進出に伴い、その子孫の佐竹氏の家臣となり、佐都西郡小野崎郷を本貫の地とした。南北朝時代には北朝足利尊氏方として佐竹貞義・義篤に従い、各地を転戦した。
1348年(貞和4)小野崎通胤は小野崎城から櫛形城に本拠を移すが、2男通房は旧地に留まり、八百岐城を築いて石神小野崎氏初代となる。
1432年(永享4)山入の乱に伴う石神城合戦で小野崎越前三郎通房(初代通房の孫)は戦功を立て、鎌倉公方足利持氏より感状を与えられている。
1489年(延徳1)芦名盛高・伊達尚宗・結城政朝ら連合軍が佐竹領に侵攻した時、通房の孫である通綱は久慈郡上深荻に防いで討死したが、翌年その子通老は父の戦功により石神350貫・河合350貫の所領が与えられ、この石神城を築いたとされる。
1535年(天文4)石神通長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は同族の額田城主額田篤通にこれを鎮めさせた。しかし1547年(天文16)両者は所領を巡って再び争い、石神城は落城、通長は城を退去したが、1558年(永禄1)頃、佐竹氏への戦功により帰城が認められると以後佐竹氏に忠実に従い各地を転戦した。
1602年(慶長7)7月、佐竹義宣が徳川家康により出羽国秋田に転封を命じられると、石神通広もそれに従い、石神城は廃城になった。
石神城は東に久慈川を望み、南北を深い谷地に挟まれた要害に位置する。東から本郭(遠見城)・二郭(御城)・三郭と並ぶ3つの曲輪を中心とし、その北西に北郭(領主屋敷)を置いていた。その西に城下町である惣構えを持ち、現在住宅地となるが、上宿・中宿・下宿と区画されていた。また谷地を挟んで南に建つ城主菩提寺である長松院は外郭として利用され、小野崎氏墓碑や石神合戦供養塔が立つ。
三郭土橋・虎口 三郭北堀 三郭
三郭西堀 三郭西土塁 東海十二景碑(石神城春草)
二郭・三郭間土橋 二郭(御城) 二郭北堀
本郭・二郭間堀 内側から見る本郭虎口 本郭(遠見城)
北水堀跡 北郭(領主屋敷) 下宿に立つモチノキ
南から城址遠望 Mapion
長松院・石神城主霊廟
長松院・石神合戦供養塔

参考文献 「現地案内板」 
                       「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2021年12月