石母田城

石母田城いしもたじょう
福島県伊達郡国見町石母田舘ノ内
Mapion
城址案内板地図

--三の丸・的場口に立つ案内板--
別名         
交通 JR東北本線「藤田駅」から徒歩30分。
築城年代 鎌倉時代
築城者 石母田氏
形式 平城
主な城主 石母田景頼
甲斐源氏武田氏の出自といわれ、伊達氏譜代の家臣石母田氏居城。
1542年(天文11)伊達稙宗は突如嫡子晴宗に捕らえられ、桑折西山城に幽閉される。稙宗は小梁川宗朝により救出されるが、稙宗と晴宗の対立は南奥羽と伊達家中を二分する大乱に発展する事となった。救出された稙宗は間も無く石母田城に入り、翌年懸田城へ移るが、晴宗方の叛乱が起こり、再び石母田城に入城すると、稙宗方の拠点となる。
1544年(天文13)石母田城は晴宗に攻められ落城すると、稙宗は八丁目城へ逃れた。この時石母田光頼が晴宗方に転じたとも、石母田宮内少輔が失脚して石母田惣領家の地位を失い、代わって光頼に与えられたともいわれ明らかでないが、その後内紛を収めた晴宗が出した知行書に光頼の名が見える。
1590年(天正18)豊臣秀吉による奥羽仕置により石母田城は破却されたと考えられ、光頼の子景頼は荒山城へ移った。そして1593年(文禄2)朝鮮の役で妻の兄桑折政長が亡くなると、景頼は桑折氏を継ぎ、1615年(元和1)伊達政宗の子秀宗が伊予国宇和島城へ移ると、景頼もこれに従っている。
本丸・二の丸である「館之内」は大半が宅地や果樹園となっており、私有地の為、どこまで散策していいものか分からず詳しく見る事が出来なかったが、土塁や空堀が道路から確認出来、縄張図に見る城の形状は比較的良く残されている。
外掘跡である水路 的場口土橋跡
背後の山は厚津賀志山
本丸内掘
二の丸(荒町口)西堀跡・土塁 三の丸(荒町口)西堀跡 西側から見る三の丸土塁

参考文献 「現地案内板」
                        「山形・宮城・福島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年4月