愛媛県宇和島市丸之内1丁目 --天守閣-- |
別名 | 丸串城・板島城・鶴島城 |
交通 | JR予讃線「宇和島駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 1600年(慶長5) |
築城者 | 藤堂高虎 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 伊達秀宗 |
宇和島城の前身である丸串城の築城年代については明らかでない。1575年(天正3)文献資料に丸串城の名が初めてみえ、西園寺氏麾下家藤監物信種が前の道免城へ帰り、代わって西園寺宣久が入城した事が記される。 1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐後、伊予国は備後国三原城主小早川隆景の所領となり、持田右京を城代として統治させた。 1587年(天正15)隆景は筑前国名島城に移り、代わって大洲城に戸田勝隆が入城すると、丸串城には戸田信家を城代として入城させた。 1595年(文禄4)藤堂高虎が宇和郡7万石をもって丸串城に入城すると、翌年より大改修され、この頃より宇和島城と呼称されるようになる。 1602年(慶長7)今治を加増された高虎が今治城を築いて移った後、1608年(慶長13)伊勢国安濃津城から富田信高が10万石で入城。1613年(慶長18)信高が石見国津和野城主坂崎直盛と争い改易となると、板島領は幕府領となり、藤堂高虎がこれを預かると、城代として藤堂良勝を入城させる。 1614年(慶長19)仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が板島10万石に封じられ、翌年入城すると、以降伊達氏が11代続く事となる。 ●和霊騒動 藩祖伊達秀宗には仙台からの高禄の家臣が多く、藩財政は苦しかった。この時伊達政宗が秀宗に付け家老として派遣していた山家公頼は、藩士の禄を減らして費用を捻出しようとした為、1620年(元和6)6月30日夜、反対派に暗殺された。 |
上り立ち門 現存する薬医門としては最大級 |
長門丸石垣 | 長門丸 |
藤兵衛丸へ続く階段・石垣 | 藤兵衛丸 | 二の丸石垣 |
櫛形門(一の門) | 本丸 | 本丸櫓跡 |
天守閣 | 天守台石垣 | 天守閣玄関口・木彫家紋 |
天守閣内 | 天守閣から見る本丸・宇和島湾 | 丸之内和霊神社・御井戸 山家公頼屋敷跡 |