岡山県津山市中北上 --畝状竪掘群(てのくぼり)-- |
別名 | |
交通 | 各線「津山駅」からバス「岩屋谷口」下車。バスの便は少ないで すが、バス停で降りるとすぐ入口案内の看板があり、登山口ま で徒歩15分程です。 |
築城年代 | 1441年(嘉吉1) |
築城者 | 山名教清 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 中村頼宗 |
1441年(嘉吉1)嘉吉の変後、美作国守護職に任ぜられた山名教清により築かれた。以後西美作の拠点として山名・赤松・尼子・浦上・宇喜多・毛利各氏の支配下となり、目まぐるしく城主が代わった。 1467年(応仁1)応仁の乱が勃発すると、山名政清(教清の子)が上洛した隙に乗じて赤松政則に攻められ落城、岩屋城には赤松氏属将の大河原治久が在城した。 1520年(永正17)赤松氏と不和になり、叛旗を翻した三石城主浦上村宗により落城し、中村則久が城主となる。同年赤松氏は岩屋城奪回の為、城を包囲するが、落とす事は出来ず、赤松氏の支配は終わる事となった。 1544年(天文13)出雲国尼子晴久が美作に侵攻すると、城主中村則治(則久の子)は尼子氏に従い、副将として尼子氏家臣芦田秀家が入城する。1568年(永禄11)頃、則治は宇喜多氏に通じた秀家の子正家に謀殺され、岩屋城には宇喜多氏家臣浜口家職が入城した。 1579年(天正7)宇喜多氏が毛利氏から離れ、織田信長に付くと、1581年(天正9)岩屋城は毛利氏配下中村頼宗に攻められ落城、頼宗は決死隊を選び、「落とし雪隠」と呼ばれる崖をよじ登らせて火を放ち、攻略したという。岩屋城は毛利氏の支配下に入り、頼宗が城主となる。 1582年(天正10)高松城合戦後、毛利氏と羽柴秀吉との間で和議が成立すると、備中高梁川以東は宇喜多氏領となるが、美作の毛利方諸勢力は従わなかった為、宇喜多氏は花房職秀を将として武力接収を行い、1584年(天正12)3月、岩屋城も攻められた。この時宇喜多勢は荒神上の砦等、陣城群や土塁を築いて岩屋城を包囲し、攻防は数ヶ月に及ぶが、当時備後の鞆に居た前将軍足利義昭の調停により和睦すると、岩屋城を始めとする毛利氏方の城はすべて開城となった。以降再び宇喜多氏支配下に入った岩屋城は長船越中守が守ったが、1590年(天正18)野火により焼失し、廃城となったと伝えられる。 岩屋山山頂の本丸を中心とし、「く」の字に二の丸・馬場が置かれ、ここから延びる支峰にも小分城・石橋上砦・椿ヶ峪砦といった曲輪群を配している。三の丸東下にはてのくぼりと呼ばれる12本もの畝状竪掘群が設けられており、遺構は良好に残されている。 |
登山道途中にある慈悲門寺跡 有事の際には砦として利用されたと 考えられている |
慈悲門寺西の砦 | 水門跡 |
井戸跡 | 本丸下に残る石積み | 馬場跡 |
馬場跡から本丸方面 | 石橋上砦堀切 | 石橋上砦 |
椿ヶ峪砦 | 本丸 | 本丸・落とし雪隠 |
本丸から馬場跡方面 | 二の丸堀切 | 二の丸 |
二の丸下大堀切 | 三の丸 | 畝状竪掘群(てのくぼり) |
南麓・登山口に置かれている石塔 | 南麓・仁反田屋敷跡 | 南麓・西尾興九郎屋敷跡 |