三石駅から目の前に見える標高290メートルの天王山山頂に位置する。1333年(正慶2)南朝方に従った地頭の伊東大和二郎宣祐により築かれたとされる。その後白旗城主赤松氏が備前守護職に任ぜられると、重臣浦上宗隆が守護代として三石城主となり、以後代々浦上氏居城となった。1441年(嘉吉1)嘉吉の乱で赤松氏が一時滅びると、浦上氏もそれに殉じたが、1467年(応仁1)赤松政則が再び守護職に返り咲くと、赤松氏再興に活躍した浦上則宗は守護代に復帰し、これらの変を通じて浦上氏は主家を凌ぐ程の力を持った。 1518年(永正15)則宗の孫である村宗の頃、主家赤松義村と不和になり、三石城は義村に攻められるが撃退し、村宗が実権を握るようになる。そして1521年(大永1)室津城に幽閉した義村を自害させると播磨国西部と備前国東部を支配する戦国大名となった。 1531年(享禄4)村宗が大物合戦で敗死すると、跡を継いだ村宗の長男政宗は2人の弟と不和になり、政宗は室津城に居城を移し、次男宗景は天神山城、三男国秀は富田松山城に分立した。この時三石城は天神山城主宗景の
持城となり、城番が置かれたが、その後宗景が備前国・美作南部を領する戦国大名に成長すると、三石城の存在意義は薄れ、やがて廃城になったものと考えられる。 |