加納口古戦場

加納口古戦場
岐阜県岐阜市霞町

1547年(天文16)9月
織田信秀×斉藤道三
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--伝織田塚--
交通 JR東海道本線「岐阜駅」から徒歩15分。
1538年(天文7)美濃守護代斎藤利良が亡くなると、斉藤道三(利政)はその跡を継ぎ、翌年稲葉山城に拠った。
そして1542年(天文11)道三は主君である土岐頼芸を大桑城に攻め、尾張に追うと、美濃国を掌握した。
1544年(天文13)8月、頼芸を支援する織田信秀は越前国朝倉氏と呼応して美濃国へ侵攻するが、道三に撃退されている。
1547年(天文16)9月、信秀は再び美濃国に攻め入った。この時稲葉山城麓の町屋を焼き払っており、22日夕刻、激戦となった。急襲された織田方は大敗し、犬山城主織田信康や青山信昌ら多数の宿将を失った。
この合戦後、信秀は道三と和睦し、道三の子濃姫が信秀の子信長の元へ嫁いでいる。
地図の地点にある織田塚はこの合戦の戦死者を弔う為のものといわれる。往時織田塚の域内に浄泉坊(現円徳寺)があり、1558〜70年(永禄年間)円徳寺が西方300メートルの現在地に移転するに伴い、塚は次第に荒廃したという。その後1776年(安永5)安八郡神戸村善学院僧金龍が織田塚を円徳寺境内に転葬し、塚上に碑を建てたと伝えられる。また円徳寺境内には1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、改易となった織田秀信が同寺に移って剃髪した際の髪切塚がある。
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円徳寺
伝織田塚改葬地 織田秀信髪切塚

参考文献 「現地案内板」
               「戦国合戦事典 PHP文庫」
2017年4月