940年(天慶3)藤原秀郷により築城が開始され、同5年に完成したと伝えられる。秀郷は下野国に勢力を張り、子孫は小山氏や足利氏等の有力武士団となった。やがて唐沢山城は廃城となるが、足利信綱の弟成俊が佐野氏を称し、この時居城として唐沢山城を再興したという。 戦国時代に入ると、佐野氏中興の祖といわれる佐野小太郎盛綱が唐沢山城を修築する。佐野氏は小田原後北条氏と越後上杉氏という2大勢力に狭まれ、特に上杉謙信には1561年(永禄4)〜1574年(天正2)にかけて10回も攻められている。 1585年(天正13)元旦、佐野宗綱は後北条氏に従う足利城主長尾顕長を攻める為、出陣するが、これを察知した顕長が須花坂に伏せておいた鉄砲隊に撃たれ、弟岩崎重元らと共に討死した。宗綱には跡継ぎが無かった為、相続を巡り、佐野家は二分する。翌年好機と見た後北条氏は佐野を制圧し、北条氏康の6男氏忠が養子となって佐野家を継ぐという形で佐野氏は後北条氏の支配下に組み入れられた。しかし実際には氏忠は唐沢山城に入らず、城代として大貫越中守らを置いたという。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原征伐の際、天徳寺了伯(宗綱の弟)は城代大貫氏を討ち、唐沢山城に入城すると房綱を名乗る。戦後秀吉から佐野領3万9千石を安堵された房綱は城を大改修し、現在見られる唐沢山城はこの時のものといわれる。その後跡継ぎが無かった房綱は秀吉家臣である富田一白(左近)の2男信種に家督を譲って隠居し、信種は佐野政綱、後に佐野信吉と称した。 1602年(慶長7)信吉は春日岡への移転を命じられ、1607年(慶長12)唐沢山城を廃して移るが、その後信濃へ流され、佐野家は断絶した。 |