霞城

霞城かすみじょう
長野県諏訪郡下諏訪町
Mapion

--山王台に立つ金刺盛澄像--
別名 手塚城・金刺屋敷
交通 JR中央本線「下諏訪駅」から徒歩10分。
築城年代 平安時代末期
築城者 金刺盛澄
形式 平山城
主な城主 金刺氏
平安時代末期、木曽義仲の挙兵に従った下社大祝金刺盛澄居城跡。
盛澄は弟である手塚別当金刺光盛と共に北陸路を攻め上がったが、諏訪明神御射山神事の為に途中帰国した。残った光盛は1183年(寿永2)義仲の火牛の奇襲戦法で有名な倶利伽羅峠合戦に参戦し、次いで加賀篠原合戦では平家方斉藤別当実盛を一騎打ちの末に討ち取る等活躍、義仲に最後まで従い、1184年(寿永3)粟津原合戦で討死した。
義仲・光盛没後、盛澄は鎌倉に召喚されるが、京都城南寺の流鏑馬に参加していた為に遅参、 頼朝の怒りを買い処刑される事になった。その命を受けた梶原景時は「世に比類の無い弓馬の達人、盛澄を失う事は惜しい」と、その計らいで処刑前盛澄の流鏑馬を頼朝が台覧する事になった。盛澄は頼朝の指図による鎌倉一の暴れ馬を見事乗りこなし、小さな土器一つも外す事は無く、罪を許され諏訪に帰る事が出来た。後に盛澄は鎌倉の御家人となり、頼朝護身の役を勤めたという。
諏訪大社下社秋宮南に隣接する八幡台・山王台と呼ばれる高台が城址。遺構は見当たらないが、山王台に金刺盛澄像が立ち、周辺には後に拡張された居館跡と考えられる神殿や上馬場等の地名が残る。また八幡台・山王台間を通る道は堀跡のように見えるが、公園化に伴い、昭和に入ってから通されたものといい、元々は地続きであったという。
山王台 八幡台・山王台間を通る道 大坊跡
秋宮神楽殿 八幡台に建つ八幡神社 八幡台に建つ秋宮恵比寿社

参考文献 「信濃の山城と館 戎光祥出版」
          「長野・山梨の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2019年3月