勝山城

勝山城かつやまじょう
山口県下関市小野
Mapion

--南東、勝山御殿から城址遠望--
別名 且山城
交通 各線「新下関駅」からバス「田倉」下車。
勝山御殿跡付近から登山道があります。
築城年代         
築城者         
形式 山城
主な城主 大内義長(晴英)・内藤隆世
築城年代は不明だが、1521年(大永1)から大内氏重臣の内藤興盛が九州に対する備えとして在城したとされる。
1555年(天文24)主君大内義隆を滅ぼし勢威を振るった陶晴賢が厳島合戦で毛利元就に敗れると、翌年晴賢に擁立されていた豊後国大友義鎮の弟である大内義長(晴英)は毛利氏侵攻に備え、高嶺城の築城を開始した。しかし毛利氏の侵攻は早く、1557年(弘治3)義長は内藤隆世と共に未完成であった高嶺城を捨て、この勝山城に籠城した。毛利氏の攻撃により勝山城は本丸を残すのみとなり、投降の勧告を受けた隆世は義長の助命を請う為、一身に責を負い自刃した。しかし城を出て長府の長福寺(現功山寺)に入った義長も毛利軍に攻められ自刃、大内氏は滅亡した。
戦後毛利氏は勝山城に入江箸親を入れて下関方面を守らせた。
標高約360メートルの勝山に築かれており、山頂付近は非常に急峻で要害であった事が伺える。本丸南下には崩れかけているが石垣があり、北側斜面には石組みの井戸が残されている。東側、四王司山方面に続く尾根には出城跡があり、土塁?も確認出来る。
本丸石垣 本丸 櫓跡
井戸跡 出城跡 左から青山城・勝山城・四王司山城

参考文献 「現地案内板」
                        「鳥取・島根・山口の城郭 新人物往来社」 
訪城回数 1
2015年3月