厳島古戦場

厳島古戦場
広島県廿日市市宮島町

1555年(天文24)
毛利元就×陶晴賢
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--博打尾からの眺め--
交通 JR山陽本線「宮島口駅」からフェリーで10分。
1551年(天文20)9月1日、大内家重臣陶晴賢は主家大内義隆・義尊を討つと、豊後国大友氏から義隆の甥で大友義鎮(宗麟)の弟である義長(晴英)を迎え、大内を継がせた。毛利元就は不信感から晴賢と断交し、1554年(天文23)安芸南西に位置する佐伯郡内の大内勢を攻め、桜尾城等を落として厳島を占領、更に9月15日、廿日市西方の折敷畑で晴賢勢を急襲し、決戦に向け主導権を得た。
その後元就は大内氏属将の誘降と掃討を行う一方、1555年(天文24)春、晴賢との決戦の場に厳島を選び、晴賢をおびき寄せる為、囮城として宮尾城を築いた。元就は宮尾城に中村二郎左衛門を置き、更に厳島神領衆の己斐豊後守・新里宮内少輔を派遣した。
1555年(天文24)9月21日、晴賢は嫡子長房を若山城に置くと、岩国から2万の軍勢を率いて厳島へ向かい、22日大元浦に上陸、始め勝山城に陣したが、宮尾城方面の 展望がきかない為、塔の岡に本陣を移動した。
9月24日、晴賢厳島上陸の一報を受けた元就は嫡男隆元・次男吉川元春と共に銀山城を出陣し、毛利氏水軍基地である草津に着陣した。この時毛利軍総数は4千であったといわれる。
30日亥の刻(午後10時)暴風雨の中、地御前火立岩(廿日市)から包ヶ浦に上陸、深夜博打尾に着陣した。
10月1日卯の刻(午前6時)、毛利勢は塔の岡を急襲すると陶勢は総崩れとなり、また海上では能島城主村上武吉ら率いる村上水軍が陶軍船団を壊滅させた。晴賢は島外へ逃れようと大元浦へ向かうが渡船が無く、更に海岸線を南へ向かい大江浦に出るが、ここでも渡船が無く、進退極まり自刃した(高安ヶ原とも)。
10月3日、最後まで駒ヶ林に拠っていた弘中三河守・中務大輔隆助父子も力尽き、合戦は元就の勝利に終わり、10月5日、桜尾城で晴賢らの首実検を行った。
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宮尾城
宮尾城から塔の岡(五重塔)方面
中央の山が駒ヶ林・左が弥山
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包ヶ浦
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博打尾
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大元浦
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血佛
1658年(明暦4)に建てられた供養塔

参考文献  「現地案内板」
               「歴史群像シリーズ 学研」
2008年1月