高嶺城

高嶺城こうのみねじょう
山口県山口市上宇野令
Mapion
登山口地図

--本丸西・石垣--
別名 高峰城・鴻峰城
交通 JR山口線「山口駅」から登山口「山口大神宮」まで徒歩20分。
築城年代 1557年(弘治3)
築城者 大内義長(晴英)
形式 山城
主な城主 大内義長(晴英)・市川経好
1555年(天文24)陶晴賢が厳島合戦で毛利元就に敗れると、翌年晴賢に擁立されていた豊後国大友義鎮(宗麟)の弟である大内義長(晴英)は毛利氏侵攻に備え、この高嶺城の築城を開始した。しかし毛利氏の侵攻は早く、1557年(弘治3)義長は内藤隆世と共に未完成であった高嶺城を捨て、勝山城に逃れた。その後義長は長府の長福寺で自刃、大内氏が滅亡すると、毛利氏は高嶺城を修築して市川経好を城主に置き、山口の守りとした。
1569年(永禄12)毛利元就・輝元は長府に出陣し、吉川元春・小早川隆景に命じて筑前国立花山城を攻めた。これに大友義鎮(宗麟)は毛利軍の背後を衝く為、大友家に寄食していた大内氏一族である大内輝弘を秋穂浦に上陸させた。大内家再興を目指す輝弘は山口に乱入し、経好が立花山城攻めに従い不在であった高嶺城を攻めた。しかし経好の妻女が僅かな守兵を励まし、攻防10余日守り通した。やがて変を聞いた毛利軍が山口に向かうと輝弘は防府に逃れ、茶臼山にて自刃した。
1615年(元和1)徳川幕府から一国一城令が出されると、毛利氏は萩城を残し、高嶺城、そして長府串崎城、岩国横山城を破却する事とし、1638年(寛永15)廃城となった。
山口大明神裏手に残る石垣 城址碑 段曲輪
石垣 本丸 本丸北腰曲輪・井戸跡
井戸跡 本丸西石垣 本丸北石垣

参考文献 「現地案内板」
                        「鳥取・島根・山口の城郭 新人物往来社」 
訪城回数 1
2008年1月