河村城

河村城かわむらじょう
神奈川県足柄上郡山北町山北
Mapion

--茶臼郭・小郭間畝堀--
別名 戸張城・猫山城
交通 JR御殿場線「山北駅」から徒歩15分。
築城年代 平安時代末期か
築城者 河村秀高か
形式 山城
主な城主 後北条氏
秀郷流藤原氏の一族、波多野遠義の2男河村秀高によって築かれたと伝えられるが、これは河村館に移り、この地を本貫とした時期と考えられ、まだ河村城は成立していなかったとみられる。
1180年(治承4)8月17日、源頼朝が以人王の平家討伐の令旨を受け挙兵した際、秀高の子義秀は平家方に属した為領地を没収されたが、1190年(建久1)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領河村郷に復帰できたという。
河村氏は建武の中興、南北朝時代と、松田氏と共に南朝方新田氏に従い活躍するが、1352年(正平7)北朝方足利尊氏に鎌倉を攻められると、河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治の軍勢6千騎と共にこの河村城に籠もり、畠山国清を将とする足利勢と2年に渡る攻防戦を繰り広げた。しかし翌8年3月城下、南原で敗れ、河村一族は秀国・秀経を始め、そのほとんどが討死した。
その後河村城は畠山国清、関東管領上杉憲実を経て、後北条氏の相模進出までの約60年間、大森氏の支配を受けていたと考えられる。
後北条氏時代には武田氏との攻防の中、小田原城の支城として重要され、1570〜73年(元亀年間)には河村城の改修が行われている。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、廃城になったと思われる。
茶臼郭 茶臼郭・小郭間畝堀 畝堀東隅にある姫井戸
往時は井戸として利用され、落城時
城主の姫が身投げしたと伝わるが、
発掘で遺構は見つかっていない。
本城郭 本城郭に立つ城址碑 本城郭から小郭・茶臼郭方面
本城郭・小郭間畝堀 本城郭・蔵郭間堀切 蔵郭
近藤郭堀切
土橋が往時のものかは不明
大庭郭 北郭堀切

     参考文献 「現地案内板」
                           「千葉・神奈川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 3
2006年9月
2007年3月
2008年9月