1561年(永禄4) 武田信玄×上杉謙信 --信玄・謙信一騎打ち像-- |
交通 | JR信越本線「長野駅」からバス「川中島古戦場」下車。 |
1561年(永禄4)3月、上杉謙信は小田原へ侵攻し、その後鎌倉で上杉憲政から関東管領職と
上杉姓を譲り受けた。 春日山城へ戻った謙信は8月、1万3千の兵を率い川中島へ向かい、善光寺を経て海津城の南西妻女山に布陣した。 これに対し信玄は躑躅ヶ崎館を出陣、2万の兵を率い24日、妻女山の西北に位置する 茶臼山に布陣、5日間両軍は対峙するが長期戦になると見た信玄は29日、川中島を横切り海津城に入城した。 海津城を本陣とする信玄は妻女山背後から別働隊1万2千で奇襲し、謙信を川中島に追い落とした所を八幡原に布陣した本隊8千で攻撃するという山本勘助の献策「啄木鳥戦法」を採用する。 9月9日夜、高坂昌信・馬場民部ら別動隊は妻女山へ向かい、信玄は本隊を率い八幡原に布陣する。しかし謙信は海津城から昇る炊煙を見て信玄の奇襲を察知すると、密かに妻女山を下り、雨宮の渡しで千曲川を渡って八幡原へ進出、両軍は激突した。 武田軍は信玄弟である典厩信繁や信玄に献策した山本勘助らが討死する等劣勢であったが、妻女山に向かっていた別動隊が駆けつけると形勢は逆転し、上杉軍は撤退した。 |
三太刀七太刀之跡碑 本陣に単騎で乗り込んだ謙信は信玄 に三太刀切りつけそれを信玄は軍配 で受け止めたという。後軍配に七ヶ所 の刀傷があったといわれる。 |
執念の石 信玄と謙信の一騎打ちの際助けに入 った原大隅守虎胤が馬上の謙信を狙 い槍を出したが槍先ははずれ謙信を 逃がしてしまう。その時原大隅が悔しさ のあまり側にあったこの石を槍で突き 通したとされる。 |
八幡社境内・土塁 |
首塚 高坂弾正が合戦の後両軍の戦死者を 敵味方なく手厚く葬った塚という。 |
胴合橋 討死した山本勘助の首を家臣が敵か ら奪い返し胴と合わせた場所という。 |
典厩寺・信繁首清め井戸 |