鞠智城

鞠智城きくちじょう
熊本県山鹿市菊鹿町米原
Mapion

--鼓楼--
別名 鞠智城(くくちのき)
交通 「桜町バスターミナル」からバス「菊池温泉・市民広場前」下車。
乗り継ぎ⇒ 「菊池温泉・市民広場前」からバス「一寸榎」下車。
バス停から徒歩15分。
築城年代       
築城者 天智天皇
形式 朝鮮式山城
主な城主     
660年(斉明天皇6)百済が唐・新羅連合軍に敗れ、滅亡すると、百済遺臣らは友好国である倭国に救援を求める。倭国は百済再興の為、援軍を送るが、663年(天智天皇2)唐・新羅連合軍に白村江の戦いで敗れた。
西からの唐・新羅侵攻の脅威にさらされた倭国は防衛体制の整備を行い、海に近い那津にあった官衙を大宰府の地に移すと、664年(天智天皇3)対馬・壱岐・筑紫に沿岸防備の防人と烽を置き、また大宰府防衛として水城を築いた。
次いで665年(天智天皇4)長門城・基肄城大野城、667年(天智天皇6)高安城屋嶋城金田城を築いて備えた。鞠智城の築城年代は不明だが、「続日本紀」に698年(文武天皇2)「大宰府をして、基肄・大野・鞠智の三城を繕治する」と記載されており、基肄・大野両城にそれ程遅れない頃の築城と考えられる。鞠智城は後方支援基地の役割を担っていたと推定されるが、他の城に比べて内陸部に位置する事から対外的な目的だけで無く、中九州・南九州の諸氏族に対する抑えとして築かれたとも考えられている。
城址は歴史公園として整備され、八角形鼓楼・米倉・兵舎・板倉の4棟が復元されており、併設するガイダンス施設「温故創生館」に資料が展示されている。
鼓楼 建物跡 板倉
建物跡 深迫門跡 堀切門跡
池ノ尾門跡 西側土塁線 烽見ノ御所

参考文献 「現地案内板」
                          「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2019年12月