群馬県桐生市梅田町1丁目 --三の丸北堀切-- |
別名 | 柄杓山城 |
交通 | JR両毛線「桐生駅」からバス「居館」下車。 南麓に建つ日枝神社に登山口があります。 |
築城年代 | 1350年(観応1) |
築城者 | 桐生国綱 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 桐生氏・由良成繁・国繁 |
1350年(観応1)佐野氏一族と考えられる桐生国綱(後桐生氏)により築かれたとされる。 桐生助綱(信綱)の代、桐生氏は全盛時代を迎え、桐生城も現在残る姿に大改修されたと考えられる。跡継ぎの無かった助綱は佐野昌綱の子である親綱(重綱)を養子としたが、助綱没後、赤荻の里見上総入道を討つ等、家臣の離反を招き、1572年(元亀3)3月12日、太田金山城主由良成繁に急襲されると、親綱は佐野に逃れ、桐生氏は滅びた。桐生を支配下に置いた成繁は横瀬勘九郎、次いで勘九郎の父横瀬長繁を桐生城代としている。 1573年(天正2)成繁は金山城を国繁に譲ると、桐生城に隠居し、1578年(天正6)没した。この時佐野に居た桐生親綱は桐生城の奪還を目論み、桐生に潜入して挙兵しようとするも応じる者は無く、果たせなかった。 1585年(天正13)後北条氏に金山城を明け渡した国繁は桐生城に本拠を移した。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、国繁は強要されて小田原に籠城したが、母妙印尼は嫡孫貞繁を助け、300人を率い、豊臣方として各地を転戦した。戦後、この功により国繁は常陸国牛久5千石、弟渡瀬繁詮は遠江国横須賀3万石を与えられた。 標高361メートル、城山に築かれている。山頂の本丸から北西に延びる尾根上に二の丸・三の丸と続き、二の丸から北に北曲輪が設けられている。本丸から南東200メートル中腹には坂中曲輪があり、ここから尾根を下ると大手、居館跡である渭雲寺へ通じている。 |
大手堀切 | 坂中曲輪 | 坂中曲輪北堀切 |
本丸下横堀 | 本丸 | 本丸からの眺め |
本丸東腰曲輪 | 本丸・二の丸間堀切 | 二の丸 |
二の丸土塁 | 二の丸北堀切 | 二の丸・三の丸間堀切 |
三の丸 | 三の丸西横堀 | 居館跡である渭雲寺から城址遠望 |