喜多見陣屋屋敷

喜多見屋敷きたみやしき
東京都世田谷区喜多見4丁目
Mapion

--慶元寺・江戸氏墓所--
別名 木田見(北見)氏屋敷・喜多見城・喜多見陣屋
交通 小田急線「喜多見駅」から徒歩20分。
築城年代 鎌倉時代
築城者 江戸氏
形式 屋敷
主な城主 木田見(北見)氏・江戸氏・喜多見重政
後の江戸城本丸・西の丸付近一帯に本拠を構えていたと考えられている江戸氏の一族である木田見(北見)氏屋敷跡。鎌倉時代、江戸氏は江戸防衛としてこの地に一族の小次郎親重(長家)を置いた。この時親重は木田見氏を称し、現在の狛江・喜多見・世田谷一帯を領していたと考えられる。
木田見氏については1221年(承久3)の際、江戸氏に率いられて北見次郎という人物が従軍している。また北見次郎入道成念の娘が熊谷直実を祖とする熊谷氏に嫁ぎ、成念没後、所領争いが起こったという記録があり、他に熊谷直春という人物の名もみえる事から一時熊谷氏も屋敷を構えていたと考えられる。
1358年(延文3)頃より江戸氏は関東公方足利氏の圧力に押されて徐々に衰退する。そして1457年(長禄1)重廉の時、太田道灌の出現により江戸を追われるとこの地に移り、世田谷城主吉良氏に従うと、その後後北条氏の直接指揮を受け、各地を転戦した。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、江戸氏一族は伊豆下田城守備を命じられ、満頼が討死している。徳川家康の関東入国後、江戸氏は喜多見と姓を改め、1592年(天正20)喜多見勝重が旧領喜多見500石を安堵され、旗本となった。その後重恒を経て、重政の時、5代将軍徳川綱吉の側用人に登用され、2万石の大名となり、喜多見藩が成立した。しかし1689年(元禄2)2月、分家の喜多見重治と義弟朝岡直国との間で起きた刃傷事件に連座して、喜多見氏は改易となり、この時屋敷(陣屋)も廃された。
木田見(北見)・江戸氏屋敷跡は慶元寺・氷川神社付近とされるが、遺構は見られない。またかつて慶元寺付近にあったという堀跡は誤認とも考えられ、詳細な位置は不明である。後に喜多見氏が設けた陣屋についても明らかでないが、東側に建つ須賀神社一帯に「陣屋」の字名が残されている。
慶元寺 須賀神社

参考文献 「現地案内板」
                          「世田谷の中世城塞 世田谷区教育委員会」
訪城回数 2
2007年7月
2010年6月