世田谷城

世田谷城せたがやじょう
東京都世田谷区豪徳寺2丁目
Mapion

--空堀--
別名    
交通 小田急線「豪徳寺駅」から徒歩15分。
築城年代 1394〜1428年(応永年間)頃
築城者 吉良氏
形式 丘城
主な城主 吉良頼康
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で三河国吉良荘を発祥とする。世田谷吉良氏はその庶流で、1366年(貞治5)治家の頃、又は1394〜1427年(応永年間)頼治・頼氏の頃、この地に本拠を置いたといわれる。
吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していたが、成高の頃には蒔田にも居館を有し、「世田谷殿」とも「蒔田殿」とも呼ばれていた。成高の子である頼康は北条氏綱の女、高源院を室に迎え、頼康の養子氏朝も北条氏康の娘、香林院を迎えており、この時叔父である北条幻庵が作法を記した「幻庵覚書」を持たせた事が知られている。
このように吉良氏は後北条氏と姻戚関係を結び、その庇護下にあったが、1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、徳川家康が関東に入国すると、世田谷城は廃城となり、氏朝の子頼久は上総国寺崎村に移され、子孫は旗本として幕末まで続いた。
1633年(寛永10)近江国彦根藩主2代井伊直孝は江戸屋敷の賄料として世田谷15ヶ村(後に20ヶ村)を給され、彦根藩世田谷領が成立すると代官として吉良氏旧臣である大場氏が取り立てられ、代々世田谷代官屋敷で職務に当たった。
世田谷城の城域は諸説あるが世田谷城址公園から豪徳寺住宅周辺が「詰城」で豪徳寺境内が「館(本丸)」と考えられており、部分的に空堀や土塁が残されている。その構造は1537年(天文6)の再築とされる深大寺城と類似しており、16世紀前半に大改築された事が伺える。また豪徳寺は吉良氏の小庵「弘徳院」が前身といわれ、1633年(寛永10)直孝が井伊家菩提寺として整備し、寺号は直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英大居士」に由来する。
世田谷城址公園 曲輪跡 土塁上
豪徳寺参道脇土塁 豪徳寺 豪徳寺
彦根藩2代井伊直孝墓
豪徳寺
彦根藩13代井伊直弼墓
勝光院
吉良氏一族墓
出城跡とされる世田谷八幡宮

参考文献 「現地案内板」
                    「東京・埼玉の城郭 新人物往来社」
訪城回数 4
2006年2月
2008年2月
2009年10月
2017年5月