茨城県古河市中央町 --本丸跡・渡良瀬川河川敷-- |
別名 | |
交通 | JR東北本線「古河駅」から徒歩15分。 |
築城年代 | 平安時代末期 |
築城者 | 下河辺行平 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 古河公方足利氏・小笠原秀政・土井利勝 |
平安時代末期、この地は下総国下河辺荘で、小山行義が支配し、下河辺氏を称していた。古河城は1180年(治承4)頃、行義の子行平が築城したと伝えられる。下河辺氏は代々古河城を居城としたが、室町時代初期、当時の城主朝行は小山氏に攻められ城を追われた。 1455年(享徳4)5代鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠との対立に始まる享徳の乱が起こり、成氏は将軍の命を受けた駿河国今川範忠に鎌倉を追われると、古河館を築いて古河公方を称すが、1457年(長禄1)この古河城を修築して移っている。 1471年(文明3)山内上杉家の家宰である長尾景信に攻められ落城すると成氏は下総国本佐倉城主千葉孝胤を頼り、この地を逃れるが翌年、古河を回復し、帰還した。 古河公方は成氏の後、政氏・高基・晴氏・義氏と続き、義氏が没した後、古河城は後北条氏家臣芳賀正綱が守っていたが、1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、豊臣勢に攻められ落城した。 その後古河城は江戸にとって東北方面の押さえとして重視され、城主は目まぐるしく変わり、明治に至るまで続いた。 本丸を含め、城址の大部分は渡良瀬川河川工事により消滅したが、観音寺郭や出丸である諏訪郭等、市内各地に部分的に遺構が残されている。 |
城址主要部 | 観音寺曲輪(頼政神社)土塁 |
古河藩作事役所跡(頼政神社) |
船渡門跡 |
古河藩医河口信任屋敷跡 |
追手門跡 |
正定寺・旧土井家江戸下屋敷表門 |
正定寺・土井利勝像 | 隆岩寺・小笠原貞慶墓 |
獅子ヶ崎土塁 |
獅子ヶ崎水堀 | 諏訪曲輪跡碑(古河歴史博物館) |
諏訪曲輪・整備された水堀・土塁 | 福法寺・移築された古河城乾門 |
城址西を流れる渡良瀬川 |